「じゃあ、ドイツに残りなさい」
自分の子どもや祖父母を被写体にした作品はときどき目にするが、母親を写したケースは非常に珍しい。親と子はあまりに近すぎる関係で、そこには複雑な感情があったりする。そのため、適度な距離をとるのが難しいのではないか。
そう笠井さんに水を向けると、「ぼくは中学生、高校生のとき、親といっしょに生活していなかったので、母親に対する反抗期というのがなかったんですよ」と言う。
笠井さんの父、叡(あきら)さんは国際的に活躍してきた舞踏家である。「父がドイツで活動するというので」、一家がシュトゥットガルトに移り住んだのは笠井さんが小学5年生のときだった。
言葉の壁もあり、ドイツでの暮らしにはなかなかなじめなかった。それでも3年ほどたつとドイツ語が話せるようになった。
「ゆっくりとしゃべれるようになるのではなくて、なんか、いきなりしゃべれるようになった。すると、いろいろなこと理解できるようになった」
帰国の話が出たのはそんなタイミングだった。
「これで日本に帰れる、と思ったんですけれど、ドイツ語がしゃべれるようになってドイツ人の友だちもできた。ようやくここまでに築き上げたのに、このまま帰るのはもったいな、という気持ちが芽生えていた。それで、親に言ったんです。『ドイツに残ってもいいかな』って。そうしたら、『あらそうなの、じゃあ、残りなさい』って」
突然ひらめいた撮影
話を写真集に戻そう。
「17年ごろから、以前、みんなで住んでいたシュトゥットガルトに行こうと、家族全員で計画を立てたんです。父親も母親も高齢なので今のうちに行かないと、もう行けないだろう、と。それで両親と2人の弟、妻たちも含めて、本当に家族全員で行った」
シュトゥットガルトに旅立ったのは19年7月。
「出発の1週間くらい前だったと思うんですけれど、ああ、このタイミングだったら母親を撮っていいかも、って、突然ひらめいた。本当に頭の中に降りてきた感じでしたね。シュトゥットガルトだったら実家で撮るのとは違うし、全く関係ない場所で撮るわけでもないですし」
笠井さんは母親に電話した。
「『ちょっとドイツで写真を撮ろうと思うからよろしくね』みたいなことを言うと、向こうも『あら、そうなの』っていう感じでした」