創業まもないスタートアップ企業への支援を語るとき、オーナーを務めるプロ野球の横浜ベイスターズの話と並んで口調が熱くなる。どちらへの情熱も当分、衰えないだろう(撮影/狩野喜彦)
創業まもないスタートアップ企業への支援を語るとき、オーナーを務めるプロ野球の横浜ベイスターズの話と並んで口調が熱くなる。どちらへの情熱も当分、衰えないだろう(撮影/狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年6月26日号では、前号に引き続きDeNA・南場智子会長が登場し、南場さんが尊敬していた上司と出会ったという思い出の地・日比谷を訪ねた。

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 1986年春、東京都小平市の津田塾大学の英文学科を卒業し、米コンサルティング会社マッキンゼーの日本支社に入社した。コンサルタントの仕事に興味があったわけでなく、どんな仕事なのかもわかっていない。なのに、支社が入っていた東京・日比谷のビルであった会社説明会の格好よさに、ひかれた。「いくらでも仕事をしていい」という社風にも、頷いた。

 そんなことで、うまくいくはずもない。愚かだった。でも、自分は幸運だった。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

■どこかでみている「優しい眼」が職場にあった

 南場智子さんが、幸運だった、ビジネスパーソンとしての『源流』になったと思うのが、仰ぎみていた上司との出会いだ。その舞台だった日比谷を、ことし3月、連載の企画で一緒に訪ねた。

 マッキンゼー日本支社が入っていたビルは、日本を代表する企業の本社が続く日比谷通り沿い、日比谷公園の東側にある。明治時代に、国際交流の社交場だった鹿鳴館があった地だ。ここに1984年にできた大和生命ビルで、会社説明会にいって目にした数千枚のガラスで覆われた姿を、いまも覚えている。

「この前は、マッキンゼーを辞めてから車でよく通りました。でも、ビルの前に佇んだのは久しぶり。懐かしい場所へいったりはしないので、新鮮です」

 いつも、どこかから「優しい眼」で職場の自分をみていてくれる。心がくじけたとき、「俺に力を貸してくれ」という言い回しで、知らず知らずのうちに立て直してくれる。そんな人が1人でもいたら、人は生き抜いていける。南場さんが「きっとそうだった」と思う上司が、日本支社で役員に当たるパートナーだった千種忠昭さんだ。

 ビルは、解体工事が進んでいた。囲いがあって、ガラスをまとった姿は、みえない。ここで就職の内定を告げられたとき、東京の大学へいくことをやっと認めた父に「就職では実家がある新潟市へ戻る」と約束させられていたので、近くの公衆電話のボックスから報告した。「ダメだと言われるだろうな」と思っていた。でも、「マッキンゼーか、おめでとう。頑張りなさい」と言われた。そんなことは生まれて初めてだったので、忘れていない。

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