■上司の配慮からやっと知った仕事の面白さ

 思えば、失敗の連続だった。子どものころから、学校の成績はトップクラス。試験は問題が出る範囲が分かっているから、勉強すればこなせる。でも、コンサルの仕事は違う。「出題範囲」が決まっているわけではなく、自分で一から調べ、自分で答えをみつけねばならない。何度も、立ち往生した。

 2年が、限界だった。逃げ出すように、米ハーバード大の大学院へ留学する。当時の支社長は、世間がもてはやす経営学修士号(MBA)にあまり価値を認めず、入社後4年たっていないと留学を認めない。だから、退職した。試験は得意だから、MBAは順調に取得する。そのまま米国で就職しようと思っていたが、新潟市にある実家の母が病気になったと知り、帰国する。古巣へ電話して、日比谷のマッキンゼーへ戻った。

 ハーバードでの2年間も、試験はこなしても、社会に関する知識が増えたわけではない。だから、2度目も、壁にぶつかった。ある銀行の「国債の売買取引で勝つ戦略がほしい」との依頼を担当したが、金融は詳しくないし、いくら調べても答えがみつからない。結局、「勝てる戦略などない」との報告を出して、依頼主に怒られた。

 その案件から外されて、「この仕事は、もう無理だ」と2度目の退職を決意したとき、千種さんに呼ばれ、大きな案件を始めるチームに誘われた。でも、退職するから、と断る。なぜ辞めるのかと問われ、数々の失敗を説明した。黙って聞いていた千種さんが、最後に言ったのが「わかった、辞めていい。だけど、最後に俺の案件をやっていってくれ。力を貸してくれ」だった。

『源流』は、その前に湧いていた。留学へ「逃亡」する前、ある案件で依頼主へプレゼンテーション(提案の報告)をする会議があった朝、前夜のうちに説明文書60部を作成し、届ける役だった。徹夜のような日々だったので、できた文書を自宅へ持ち帰り、仮眠した。すると、寝坊して、プレゼンに遅れた。

 終了後、怒る上司らに、姿を現して「ここまでいいプレゼンができたのは、南場の頑張りがあったからだよ」と言って、かばってくれたのが千種さんだ。日比谷の街を歩くと、そのときのことを思い出す。千種さんのチームに入って「もう最後の仕事だから、周囲にどう評価されるかなどはどうでもいい」と、肩の力が抜けた。ずっと心にあった「仕事がちゃんとできるだろうか」との不安も、消えた。案件を成功させることだけに集中する自分──初めての経験だ。

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