そんな気付きがあったものの「間に合わなかった」という三浦は20代半ばで中日を退団。佐川急便に勤務していた30代半ばの頃、中日との懇親会があった。三浦は接待役。そこにかつての仲間、山本昌投手が招待客の一人としてやってきた。
「彼は何も変わりなく接してくれましたけど、こっちは《あの頃は遊びでも何してても一緒だったのに、こんなに差が付いてしまったのか》と思ってしまいました。
■自分で考えて気付くのが大事
もっとも……僕らが若手選手だった頃の門限は22時半で、山本は22時頃にはソワソワしだすんです。僕らが『付き合い悪いな』と言っても山本は必ず門限までに帰っていきました。で、アイツが45歳くらいのときも、こう言ってたんですよ。『明日できるかどうかわからないから、毎日やってないと不安になる』」
後に50歳で登板を果たして球界最高齢プレーヤーとなった山本昌との対比……また三浦は否応なく“努力”を意識した。
「僕は子どもたちを指導する前に『俺、学校の先生じゃないからな。ダメなことには怒るし、やめちまえ、とか言ってしまうかもしれない。いい? わかった?』と言うんです。今のところ、それで『NO』と言った子は一人もいないですね。
プロになりたい、大谷選手みたいになりたい、と夢を持つのはいいことです。そのために何をしないといけないのか、本人が気付くことが大事でね。僕は、そのためのヒントをあげるんです。
たとえば、『大谷は、こんなことしてるみたいだよ』と言います。それをやった子が『次は、どうしたらいいですか?』と聞いてきたら、『じゃ、これもやってみたら』。そうやって三つくらいやった子は何をしたらいいのか自分で考えて……何かに気付いて向こうから『コレは?』とか『こうしたらいいんですね』とか言ってくる。そうしたら、『そうだよ、そういう練習をいっぱいしていったらいいんじゃない』と、褒めてあげるんですよ。