当時、「何でお礼をしないんだ。住所は俺が書くから、サインを書け」と、父親がファンレターに返信した。届いた7万5千通のうち住所のわかるもの2万通に返事を出したという。試合に勝てば酒を奢り、ファンレターに返信し、しかも、それは全て闘病中。財布が心配だが、息子はそれをちゃんと認識していた。
「プロ入りの契約金は全て渡しました。あれで借金を返したと思います」
一方で、こんなことも……プロ1年目のオフの正月、父親を家に残し親族の集まりに行くと、電話がかかってきて「俺は死ぬぞ」。慌てて帰ると家の中はグチャグチャ。父親は泡を吹いて寝ていてサイドボードの中の酒の瓶は割れていたが、三浦の記念のボールだけ、きれいに残っていた……。
「仲間外れにされたと思って怒ったんですよ。肝臓が機能してないから酒を飲んだら死ぬ、と言われていたんですけどね。そんな父親を僕は木刀で殴ろうとして、親戚に止められました」
きれい事では済まない、愛憎相半ばする親子。
「プロに入ってからも2回、名古屋まで観に来てくれました。僕の好物だったハーバーってお菓子を持ってきてくれて『元気でやってんのか』と。もう、怒られることはありませんでした」
そしてプロ3年目の、二十歳のときの沖縄キャンプ。朝の5時半に宿舎に電話がかかってきた。
「母から『父ちゃんが死んだ』と言われて朝イチの飛行機で帰りました」
プロ入り時の「オヤジが生きているうちに1勝したい」という思いはかなわなかったが、彼の一番のファンだった父を亡くした、この年、1軍初登板を果たす。そして「1軍の門限は午前1時でした」と言って語りだしたのは落合博満の“努力”。
「僕らが夜、宿舎から遊びに行こうと落合さんの部屋の前を通ると、『ブン』って、バットを振る音がしたんです。で、門限過ぎの午前3時頃にコソッと帰ってきて落合さんの部屋の前を通ると、まだ『ブン』と音がしてて……ビビりました。俺ら若造が遊んでんのに、落合さんは部屋でずっとバットを振ってたんだと。鳥肌が立ちました。ヤベえな。俺ら、このままじゃダメだ、と気付いて、それまで『ダッシュ10本』と言われたら8割は流してたのに、全力でやるようになったんです」