学校の運営に地域の人たちが関わるコミュニティ・スクール。学校運営協議会のメンバーや地域の人が授業を見学(長野県の義務教育学校で)
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 未だに「正解主義の授業」がほとんどで、正解のない課題のアクティブラーニングを教える教育現場は、国内にはまだまだ少ない。教育改革実践家の藤原和博氏の新著『学校がウソくさい 新時代の教育改造ルール』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、同氏が考える新たな教育のあるべき姿を紹介する。

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 日本の成熟社会は1998年から始まった。

 成長社会から成熟社会への変化とは、正解至上主義の教育が正しかった時代から、正解至上主義では通用しない時代への変化でもある。

 戦後日本の高度成長社会では、大きいことはいいことだ、早いことはいいことだ、安いことはいいことだというように、社会的な「正解」がはっきりしていた。だから、学校ではひたすら「正解」を覚えさせたり「正解」の出し方を練習させる正解至上主義の教育が行なわれた。結果、答えを早く正確に当てられる「早く、ちゃんとできる、いい子」が増産され、産業界に処理能力が高いホワイトカラー、ブルーカラーとして送り出されてきた。

 戦後50年はこれで良かった。正解だったのだ。

 ところが、成熟社会に入ると、すべてのモノ、コト、ヒトが多様化、複雑化し、変化が激しくなってくる。一様ではないし、平均が意味をなさなくなる。

 学校でも「みんな一緒」だったのが多様化して「それぞれ一人ひとり」になり(軽度発達障害だって一括りにできない)、家庭の事情も複雑になり(離婚も虐待も増えている)、変化も激しくなっているのだ。

 成長社会から成熟社会への変化は、どんどん「正解」がなくなっていく変化でもある。

 成長社会では「正解」の出し方を知っている方が有利だったし、私企業に勤めても公務員になっても偉くなれた。つまり、正解至上主義教育で育まれた「情報処理力」(答えを早く正確に当てられる力)が日本人の幸福に直接結びついていたわけだ。

 ところが、正解がないかもしくは減じていく成熟社会では、「情報編集力」の方が大事になる。

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