被害者も一様ではない。自分を被害者とは思わず「あれはジャニー氏との親密な思い出」という調子で語る人もいる。被害を強く訴えても、一方で「ジャニー氏は恩人だった」と言う人もいる。人生が中断させられた悔しさに泣き、苦しみ続ける被害者もいる。また、これまでの被害の告発を考えれば、被害者の中にはスターになった人たちもいるはずだが、性被害者に対する偏見がある社会で、著名人が性被害を語るのは大変な決意が必要なことだろう。
被害者が分断されればされるほど、加害者の罪は問われなくなる。これはジェンダー問題でも同じだ。女性が圧倒的に不利な社会で女性同士は競わされる。ある者は沈黙し、ある者は怒る。その怒りの矛先もバラバラだ。女性差別するな、という一言ですら連帯できない女たちのほうが圧倒的多数なのかもしれない。弱い者たちは常に分断されるのだ。
だからこそ、フェミニズムは被害者が語りやすい空気をつくってきた。その一つが#MeTooだ。このジャニーズの事件は、日本社会が本当に性被害に向き合えるかどうかが問われている。1980年代から告発されてきたのに、社会で無視してきた子供への性加害。被害者が分断されていることに便乗し、私たちは光の部分だけを楽しんできた。その背後で、何十年もの間、被害者が次々に生まれてしまったというのに。私はやはり、前代未聞の規模の性被害の実態を明らかにすべきだと思う。被害者の名前が必要なのではない。加害がどのように継続されてきたのか、その背景にあったものを一芸能事務所の問題だけでなく、社会として捉えるために。
刑法の性犯罪規定が改正されようとしている。性被害当事者の念願だった「不同意性交罪」に変更されるかもしれない可能性が高まっている。
今の刑法では、「同意がなかった」ことが認められても、加害者が「同意があったと勘違いした」から無罪、というケースがあった。抵抗できないほどの状況に被害者が追い込まれていたことを、被害者が立証しなければならなかった。それが今回の法改正では、これまでの「強制性交罪」と「準強制性交罪」が統合されて、「不同意性交罪」という名に改正される可能性が高まっている。どれだけ抵抗したか、またはどれだけ抵抗できなかったかではなく、「私は同意していない」ことにより重きが置かれる流れが生まれたのだ。