1597年、豊臣秀吉は生涯最後の城郭となる「京都新城」の築城を命じた。だが、その前後から秀吉は恐ろしい恐怖政治に突き進んでいた。政権を揺るがした「秀次切腹事件」にとどまらず、秀次家族全員の処刑、秀次重臣衆の切腹、聚楽第の破壊と、秀吉の命令は冷酷を極めた。政権崩壊のカウントダウンが始まるなかでの「京都新城」の築城は、豊臣家の存続という秀吉の悲願も託されていた。かつて幻の城郭といわれた「京都新城」について、城郭考古学者で奈良大学教授・名古屋市立大学特任教授の千田嘉博氏が読み解く。(朝日新書『歴史を読み解く城歩き』から一部抜粋)
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■秀吉悲願の城、政権の拠点とならず
二〇二〇年五月一二日、豊臣秀吉が最後に築いた京都新城の発見を京都市埋蔵文化財研究所が発表した。京都新城は文字史料では知られていたが、これまで研究上でも小説でもほとんど注目されてこなかった。その解明の端緒が考古学によって得られたのは大きな成果である。京都新城は秀吉が豊臣家の行く末をどれほど深く悩んでいたかを物語る城だと思う。
発掘で見つかった石垣は東向きで堀に接したもので、復元高は約二・四メートル。自然石の野面積みを主体にしたが、石材の長辺を石垣の奥方向にして積んでいる。耐震性を高めた慶長伏見地震以降の石垣の特徴を示したものである。発掘位置から考えて、見つかったのは京都新城の本丸を囲んだ堀の外側石垣と思われる。すると、本丸石垣は五メートルほどの高さだったと推測される。金箔瓦を屋根に葺いた京都新城は、華麗な城であった。二〇二〇年発表の発掘調査成果はごく一部に留まり、全体像はまだ謎に包まれているが、現時点で読みとれることを記したい。まずは京都新城築城までの動きを追ってみよう。
豊臣政権の「公」の拠点は、そもそも京都の聚楽第だった。しかし一五九五(文禄四)年に城主で関白の地位を譲った豊臣秀次を、秀吉が追放して死に追いやると、聚楽第も破壊してしまった。当時秀吉は伏見指月に隠居城をつくって、徳川家康をはじめとした諸大名に石垣普請を命じていた。そこで秀吉は、この伏見城を増改築して豊臣政権の「公」の城にすることにした。秀吉は聚楽第の周囲にあった諸大名の屋敷も伏見へ移転させた。伏見城はよく知られた城である。しかし二つの伏見城があったので、少しややこしい。これが最初の伏見城(指月伏見城)である。