この指月伏見城は宇治川に面した段丘崖の上にあって、当初は簡素なものだった。しかし豊臣政権の「公」の位置づけにふさわしい城になるよう、秀吉は改修を進め、指月伏見城は本格的な城郭へと変わっていった。ところが、一五九六(文禄五)年閏七月の慶長伏見地震で指月伏見城は大きな被害を受けた。秀吉はすぐに城を北側の木幡山に移転して再築するよう命じた。この結果できたのが現在主要部が明治天皇陵になっている木幡山伏見城だった。
■地震で大破した指月伏見城と新たな木幡山伏見城
その後、指月伏見城は木幡山伏見城の城下に吸収され一帯は武家屋敷になった。そのため指月伏見城の実態はよくわからない。二〇二一年三月に京都市がまとめた報告書では、指月伏見城の中心は現在の桃山町泰長老四地内と推測した。そして二〇二一年一二月一日、伏見城の新たな石垣が発掘で見つかったと報じられた。この成果は京都市埋蔵文化財研究所がJR桃山駅前で行ったもので、私も現場を見学させていただいた。石垣が見つかった場所は、推測した指月伏見城の範囲から外れており、ここまで城が拡大していたとすれば大きな発見である。しかし一部の研究者がいうように、JR桃山駅周辺に指月伏見城の本丸があったと考えるのは適切ではない。
見つかった石垣は指月伏見城があった南を向いており、堀を伴わないので、必然的に城内側に接した石垣の一部だったとわかる。堀は遺構の北側のどこかにあったことになるが、その痕跡は調査区外にも見つけられない。この石垣は地面を掘り込んで基礎工事を行う、当時最新の工法を採用しており、指月伏見城としては最末期にあたる頃の工事である。これらの情報を総合すると、慶長伏見地震の直前に秀吉は、指月伏見城の堀の外にさらに城を拡張する工事を最新工法を用いて進めていたと評価するのが、現状では穏当である。
一五九六(文禄五)年閏七月、慶長伏見地震が起きると、指月伏見城は大破。一命を取り留めた秀吉は地震のわずか二日後に、伏見木幡山に新たな伏見城を築くよう命じ、諸大名に大規模な石垣普請を再度割り当てた。このとき豊臣政権は対外侵略戦争である文禄の役の戦時下にあった。莫大な戦費と、膨大な人的被害に苦しんでいた諸大名にとって、伏見城建設の負担は重かった。