この頃、徳川家康がどのような気持ちで伏見城の石垣工事を分担したかを伝えるのが、一五九四(文禄三)年の「徳川家康伏見城普請中法度」(徳川美術館蔵)である。その中で家康は、豊臣の武士との工事中のいさかいで、たとえ家臣が殺されても我慢せよと命じた。太閤秀吉の命には家康であってもひたすら従うしかなく、ほかの大名たちであればなおさらだった。

 家康が法度を定めた文禄三年は秀次追放事件の前年だが、最晩年の秀吉は恐ろしい恐怖政治に突き進んでいた。秀次追放と切腹に留まらず、秀次家族全員の処刑、秀次重臣衆の切腹、聚楽第の破壊と、秀吉の命令は冷酷を極めて人びとをふるえ上がらせた。豊臣政権崩壊のカウントダウンは確実にはじまっていた。

 諸大名が分担して木幡山伏見城の工事を進めるなか、一五九七(慶長二)年正月に秀吉は京都新城の築城を命じた。『言経卿記』同年正月二八日条によれば、秀吉は京都所司代の前田玄以(徳善院)、増田長盛、石田三成の三人を奉行として派遣し、四町四方を建設予定地とした。

 京都新城の工事をはじめた直後の二月二一日、秀吉は講和交渉の決裂を理由に、朝鮮半島への対外侵略戦争を再開し、一四万一五〇〇名もの軍勢に出陣を命じた(慶長の役)。築城工事は現在の公共工事のように地域経済のカンフル剤とはいえ、戦争で疲弊し不満が高まる情勢下の築城は適切だったか。対外侵略戦争は言語道断であるが、緊急事態に適切な施策を行えるかは政権の未来を占う。ちなみに豊臣政権は滅びた。

 工事をはじめた京都新城は同年四月に敷地を北側に移動させるとともに、規模を南北六町、東西三町に拡大した。そして同年九月には主要部が完成(『義演准后日記』)。同月二六日に家康を従えた秀吉が、秀頼とともに京都新城に入城した(『言経卿記』)。同月二八日には諸大名が参集して、秀頼の「御元服」をこの城で行った(『義演准后日記』)。

 しかし、秀吉はそれから一一カ月後の一五九八(慶長三)年八月に伏見城で死去した。秀吉は最終的に秀頼の大坂入城を選択し、結果として京都新城は秀頼の居城にも、当初もくろんだ京都における豊臣の拠点にもならなかった。天皇の内裏に接し、周囲の公家町を従えてそびえた京都新城に秀頼が入ることは、摂関家としての豊臣家、公家としての秀頼を象徴した。秀吉は一瞬、そうしたかたちで豊臣家が存続していくのを願い、それが京都新城の築城ではなかったかと思う。もし秀頼が京都新城を居城にしていたら、その後の歴史はきっと変わったに違いない。」

●千田嘉博(せんだ・よしひろ)

1963年生まれ。城郭考古学者。奈良大学卒業。文部省在外研究員としてドイツ考古学研究所・ヨーク大学に留学。大阪大学博士(文学)。名古屋市見晴台考古資料館学芸員、国立歴史民俗博物館考古研究部助手・助教授、奈良大学助教授・教授、テュービンゲン大学客員教授を経て、2014年から16年に奈良大学学長。現在、奈良大学文学部文化財学科教授・名古屋市立大学特任教授。2015年に濱田青陵賞を受賞。著書に『織豊系城郭の形成』(東京大学出版会)、『戦国の城を歩く』(ちくま学芸文庫)、『信長の城』(岩波新書)、『城郭考古学の冒険』(幻冬舎新書)などがある。

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