年末、生保の販売額は全国の支店で3、4位になっていた。みんな、自信を感じさせる発言をするようになる。上げ潮ムードがその後の損保の営業にも及び、支店の成績は全国で上から3分の1くらいへ上がった。全員共通の成功体験。「諦めずに貫く」ができた。
■兄と同じ中学へ 安易に考え失敗 高校受験で挑戦
1958年2月、東京都足立区で生まれた。祖父母と両親、兄の6人家族。祖父母は長野県の農家出身で、若いときに田畑を売って上京し、荒川沿いの北千住で染色工場を始めた。父は次男だったが、兄が戦死したため、母と約30人の町工場を継いだ。祖父は幼いときに亡くなったが、「おばあちゃん」は高校2年のときまで存命した。
小学校6年のとき、兄が受験して慶応義塾の中等部へいっていたので「自分も慶応へ」と決めた。でも、安易に考えて遊び続け、親が付けてくれた家庭教師との学習時間も無視する。捜しにきた「おばあちゃん」から逃げても、追いかけられ、家へ連れ戻された。
結局、試験は通らず、別の私立中学へ進む。楽しい日々だったが、中学2年の秋に「一心岩をも通す」の言葉が浮かんだ。ここで思い直し、高校でもう一度、慶応を受験しようと決め、猛勉強を重ねて合格した。高校と慶大経済学部の7年は、庭球部で過ごす。
80年4月に安田火災海上保険(現・損保ジャパン)に入社。研修後、名古屋市の保険金サービス部へ配属され、火災保険の保険金支払いを5年担当した。営業担当は代理店を通じてやる仕事がほとんどで、お客と接点は少ない。でも、保険金の支払いは査定にいき、自宅が全焼したとか家族が事故で亡くなったとかお客が厳しい局面のなかで、直に話すことが多い。
最初の実地調査から、衝撃を受けた。仕事に出ていた夫以外の家族全員が、火災で亡くなった。着くと夫は呆然と立ち尽くし、かける言葉がみつからない。お見舞いの言葉だけにして、同行した鑑定人と調査を始めた。
燃えた柱や壁の一部が残っていたが、査定は「全焼」だ。保険金の1千万円に付帯されていた臨時費と片付け費用を加え、紙に1160万円をお払いすると書いて示す。夫は保険金額を超える提示に驚き、「家族を失った悲しみは一生癒えないが、このお金でまた新しい生活が始められる。本当にありがとう」と涙を流した。
23歳のときの鮮烈な経験だ。