敗色濃厚になると精神論にすがりたい
ちょっと怖い「楠木正成ブーム」
ただ、日本の場合、「昔はよかった」というムードがあまり強くなりすぎるのは、あまりよろしくないと思っている。ファッションや音楽くらいならばいいが、おかしな精神論・根性論がまん延するおそれもあるからだ。
レトロピアなんて言われるはるか以前から、実は日本人は「過去」が好きだ。昭和初期には明治ブームが起きているし、明治には江戸ブームもあった。昔から「過去」に魅せられる国民性があるのだ。
その中でも「歴史の偉人」に弱い。さきほどの田中角栄ではないが、偉人の生きざまやら哲学がブームのように広まって、誰も彼もが、その人から「今を生きるヒント」を見出そうとする。
先人をリスペクトすることはいいことだ。
ただ、国防や安全保障の面でそういう「歴史の偉人ブーム」が起きると、単なる立派な人を「軍神」などと持ち上げて、精神論を正当化するアイコンにして、目もあてられない大惨事を招く。わかりやすいのは、「楠木正成ブーム」だ。
ご存じのように、楠木正成は南北朝時代の武将なのだが、後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くして敗戦後に自害をしたことで忠臣の鏡とされていた。その評価は江戸時代からあって、庶民の間では「楠木正成ブーム」が起きた。
しかし、近代になるとこの人気がおかしなことになった。単に「立派な人」として人気だった楠木公は、国によって「湊川神社」が建立されたことで「軍神」とされるのだ。そして、帝国陸海軍の中でこれまでとちょっと意味合いの違う「楠木正成ブーム」が起きる。
さまざまな兵器には楠木公の「菊水の紋」が彫られて、神風特攻隊も「湊川だぜ」という言葉を残して敵艦に突っ込んでいく。つまり、かつて江戸庶民の間の「ブーム」とガラリと変わって、「忠君愛国」「滅私奉公」「七生報国」という精神論を叩き込むためのシンボルになってしまったのである。
そんな「楠木正成ブーム」が近いうちにリバイバルするののではないか、と個人的には思っている。
実は19年から、産経新聞では「日本人の心 楠木正成を読み解く」という長期連載をして書籍にもまとめられた。ゆかりのある河内長野では、「楠木正成をNHK大河ドラマに!」という動きが盛り上がっている。
実際、これからの日本には「楠木公精神」は必要だ。日本の労働生産性はOECD加盟38カ国中27位となり、1970年以降で最低となっている。また、日本経済研究センターによれば、日本の1人当たり名目国内総生産(GDP)が2022年に台湾、23年に韓国をそれぞれ下回るとの試算をまとめている。
ここまで「敗色濃厚」になると、あとは精神論にすがるしかないというのは今も昔も変わらない。まさしく楠木公の「忠君愛国」「滅私奉公」はぴったりではないか。
今の社会が息苦しくなればなるほど、人は「昔はよかった」と思う。そういう傾向がいろいろな国でも見られているということは、この感情を我々は抑えきれないものなのだろう。
これから日本は人口も減るのでもっと息苦しい社会になる。これから我々が心の安らぎを得られるのは、もはや「レトロピアへの現実逃避」しかないのかもしれない。
(ノンフィクションライター 窪田順生)