■日本中が「勘違い」していた1980年代

 実話をもとにバブル時代を描いた『アッコちゃんの時代』という小説があります(作者は林真理子)。若さと美貌を武器に、金持ちの男たちからふんだんに庇護とサービスを引き出した女性・北原厚子が主人公です。彼女が、次のようなことを思う場面がこの小説には出てきます。

<うまく言えないのだが、美しい女がその美しさを生かした職業につくのは、とても野暮ったい恥ずかしいことではないだろうか。美しい女はあくまでふつうの女のままでいて、そして世の中から大きな特典をいくつも受ける、その方がはるかに素敵なことのように思われる>

 北原厚子は作中で、「地上げの帝王」と呼ばれる男の愛人になります。ということは、「美しさ」を富に変えることに抵抗を感じているわけではありません。古風な育てられ方をした影響で、モデルや女優といった仕事を低く見る人もいますが、そういうタイプでもなさそうです。

「美しい女がその美しさを生かした職業につくのは、とても野暮ったい恥ずかしいこと」

 そう北村厚子が感じるのは、「何の努力もせずにちやほやされてこそ、その人天来の魅力の証明になる」と信じているからです。

 今となっては理解しがたい感覚といえます。2010年代の若者なら、「どれほど美しい女性でも、それだけで『大きな特典』を得るのは不当である」と考えているはずです。そういう「特典」は、努力して何かを達成することで手に入れるべきだというのが、現在では常識です。

 しかし、当時は少なからぬ人が、北村厚子のような発想を持っていました。わずかな期間で信じられないほど豊かになり、1980年代の日本人は浮かれていたのです。

 70年代前半まで、ヨーロッパに旅行できたのは一部の恵まれた人だけでした。庶民は、セレブが書いた旅行記を読んで、一生叶いそうもない憧れをつのらせていました。

 73年に1ドル=360円の固定相場制から変動相場制に移行したのち、ジグザグはありながらも、円の価値は上昇していきます。87年には1ドル=120円を記録、円の力はかつての3倍に達しました。

 強くなった円のおかげで、ありふれた一般人も、ロンドンやパリに行けるようになりました。外国車や高価な洋酒も、街に溢れはじめます。セレブにだけ許されていたもろもろが、庶民の生活に入りこんできました。

 その結果、とんでもない勘違いが広まります。特権階級だけに許されたことをやっている自分は、並みの人間でないはずだ――そんな「過大な自己重要感」を抱える「普通の日本人」が急増したのです。

 勘違いに陥った人々は、こう考えました。「実際に芸能人になるより、芸能人並みにちやほやされる素人でいたい。芸を見せたり、肉体を人前にさらしたりして注目されるのは、たんなる『等価交換』だ。これといったことをせずに特別なポジションを占めてこそ、自分の『生まれつきの重要性』が証明される」

『アッコちゃんの時代』の北村厚子は、こうした「勘違いをした一般人」の代表です。そして、「過大な自己重要感」にとらわれていたのは、「素人」だけではありません。

「歌や演技をするだけの『ただの芸能人』と見られたくない。特別な知性や感性の持ち主だと認められたい」

 80年代には、そんな風に望むアイドルが一部にいました。「生まれつきの重要性」を証明したい欲求は、「素人」とはまた別のかたちで芸能人にも取りついていたのです。

 難解な哲学書を読んでいることを吹聴した挙句、中身をわかっていないことがばれて失笑された。あるいは、芸術家と結婚してパリに移り住み、ほどなく離婚して行き場を失った――バブル世代のアイドルたちは、インテリジェンスやアートな感性を誇ろうとして、いくつも失敗談を残しています。

小泉今日子は、バブル時代に青春を過ごし、その間芸能界というギラギラした世界に身を置いていた。それでいて『自分は特別』という意識に縛られなかったのはなぜなのか?」

『小泉今日子の「謎」はどこにあるのか』(dot.<ドット>朝日新聞出版)で、そんな風に私は問いました。それに対する答えを、今回は探っていきます。

 結論を先にいえば、小泉今日子がつまずかなかったのは、本物の「プロ」だったからです。80年代、過大な自己重要感にとらわれて、「素人」も芸能人も多くが「勘違い」に陥っていました。そうした人々と真正の「プロ」の、いちばんの違いはどこだったのでしょうか?

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