やはり浪士たちも奇異に感じていたようだ。亡き主君への墓前での報告が終わり、泉岳寺の本堂で休憩していたが、捕吏はまだ来ない。すでにリーダーの大石内蔵助は、泉岳寺へ向かう途中、大目付の仙石伯耆守のもとに使いを立てて事の真相を告げている。諸説があるが、ようやく役人たちが泉岳寺から浪士の身柄を大目付の仙石伯耆守邸に移したのは午後五時ごろだったらしい。
さらに驚くのは討ち入り前に江戸に来た内蔵助は、国元赤穂の僧侶に宛てて「在京之内は従公儀も拙者江附人在之」と記しているのだ。「公儀」とは幕府、「拙者」とは内蔵助、「附人」とは密偵のこと。内蔵助は江戸に来る前は京都にいた。つまり幕府はすでに在京中の内蔵助に密偵をつけてその動向を監視していたのだ。
それなのに赤穂浪士らは、たびたび会合を開いたり、吉良邸の近所へ続々と移り住んだりしている。また、浪士は口が堅く、秘事を漏らさなかったというが、それは後世の作り話で、現在、浪士らが家族や知人に宛てた仇討ちをにおわせる何通もの書簡が発見されている。また、途中で脱落した浪士は数多く、彼らが全員口をつぐんでいたとも思えない。 これでは露見しないほうが無理というものだ。
つまり幕府は、討ち入り計画を事前に知りながら、あえて彼らを泳がせ、本懐をとげさせた可能性が高いのだ。
しかも浪士たちをいざなうように、吉良邸を江戸市中から離れた両国の地に移動させている。実際、これを知った急進派の堀部安兵衛などは大いに喜び、内蔵助に盛んに討ち入りを催促している。
それにしても、どうして幕府はこんなまねをするのだろうか。
おそらく、一番得をするのは幕府だからだろう。
幕府は、討ち入られた失態を責めて吉良家を廃絶するとともに、うまくすれば、吉良の親類で助勢に向かうであろう米沢藩上杉家十五万石を、徒党を組んだ罪で収公できると踏んでいた可能性がある。藩主の上杉綱憲は上野介の息子なのだ。