赤穂浪士が討ち入りする場面を描いたとされる浮世絵
赤穂浪士が討ち入りする場面を描いたとされる浮世絵
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主君の仇を討つために家臣たちが討ち入りをした事件として知られている、赤穂浪士の吉良邸討ち入り。人形浄瑠璃や芝居などの題材にもされた有名な事件だが、実はこの事件は単なる仇討ちではなかった、という説がある。今回は、河合敦著『江戸500藩全解剖 関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで』(朝日新書)の中から、そんな赤穂事件の「真相」を紹介する。

【写真】泉岳寺赤穂浪士の墓地

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 世間を騒がした驚きの事件といえば、やはり赤穂浪士の吉良邸討ち入りは外せないだろう。吉良上野介のいじめにあい刃傷沙汰をおこした浅野内匠頭長矩。けれど幕府によって処罰されたのは浅野だけで、吉良上野介はお咎めなし。これに対して改易された赤穂藩旧臣たちは「喧嘩両成敗ではないか」と異議をとなえ、御家の再興を求めた。

 しかし幕府はこれを却下、ここにおいて赤穂浪士らは吉良邸に討ち入り、亡き主君の仇である吉良上野介を討ち取ったのである。その逸話はやがて忠臣蔵として人形浄瑠璃や芝居となり、現代にいたるまで語り継がれている。だが、この討ち入りは、あらかじめ幕府によって仕組まれていたとする説がある。今回は、その説を詳しく検証してみたい。

 元禄15年(1702)12月15日午前4時頃に赤穂浪士たちは両国の吉良邸に討ち入ったとされる。当然、吉良邸では叫び声、刀のぶつかり合う音でにわかに騒がしくなったはず。戦いは二時間におよび、ようやく上野介の首を取ったのは午前6時は回っていたと考えられる。そのあと浪士らは亡き主君・長矩の墓前に上野介の首をささげようと、墓のある泉岳寺へと向かった。本所の吉良邸から永代橋を渡り、裏街道とはいえ往来の真ん中をぞろぞろ歩いて八丁堀、汐留、金杉橋、芝を通過し、泉岳寺へ入っている。

 だが、考えてみればこれは不思議ではないか。なぜ幕府の役人たちは、すぐに浪士を捕縛しなかったのだろう。これだけの大騒動が、耳に入らないはずはないし、彼らを捕まえる時間もあったはず。

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幕府はあえて赤穂浪士を泳がせた?