“史上最強打線”の中で4番を担った智辯和歌山の池辺啓二
“史上最強打線”の中で4番を担った智辯和歌山の池辺啓二
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 甲子園大会では、毎年超高校級の強打者たちがプロのスカウトから熱い視線を送られているが、彼らの中には、甲子園で活躍したにもかかわらず、最終的にプロに行かなかった選手もいる。

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 2000年夏、チーム大会最多安打100、同本塁打11など、記録ラッシュの“史上最強打線”で全国制覇した智弁和歌山の4番打者・池辺啓二もその一人だ。

 2年夏の99年に5番センターとして甲子園デビューを飾った池辺は、翌00年も春夏連続出場し、春は2試合連続弾を記録して準優勝に貢献。全国の頂点に立った最後の夏も、3回戦のPL学園戦で1点リードの3回に効果的な2ランを放つなど、29打数12安打9打点1本塁打の打率.414と4番の重責をはたし、“天才打者”と呼ばれた。

 高校卒業後、慶大に進学した池辺は、自主性を重んじる大学の練習になじめず、居残り練習をしなくなるなど、「楽なほうへ流された」結果、下級生のときは活躍できなかった。

 だが、3年のときに「これではいけない」と危機感を抱き、高校時代同様、練習量を増やしたのが功を奏し、4年の春にベストナイン、秋にはリーグ優勝も経験した。

 社会人・新日本石油ENEOS時代には10年間で都市対抗優勝5回、社会人ベストナイン3回と“ミスター社会人”の称号にふさわしい活躍を演じたが、ドラフトで指名する球団はなかった。

 社会人2年目の06年の大学・社会人ドラフトでは、ソフトバンクが獲得候補に挙げていたが、日本ハムが指名するとみられた専大の外野手・長谷川勇也が5巡目まで残っていたことから、池辺の指名がなくなったといわれる。

 あくまで結果論だが、「日本一チームの4番」だった高校時代にプロを志望していれば、その後の運命も変わっていたかもしれない。

 駒大苫小牧の夏連覇に貢献し、大会最速146キロ右腕・涌井秀章(現楽天)からサイクル安打を記録したのが、林裕也だ。

 04年夏、初戦の佐世保実戦で念願の甲子園初勝利を挙げた駒大苫小牧は、3回戦でも日大三に7対6と打ち勝ち、準々決勝で優勝候補の横浜と対戦した。

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サイクルヒットを記録した選手はプロ入りしない?