■択捉島で日本の墓を発見
ソ連崩壊直前という状況も後押しした。
「今なら択捉島に入れそうだ」
旧知のノーボスチ通信社のハバロフスク支局長から連絡があった。サハリン州政府と交渉の末、山本さんは同年5月、択捉島の土を踏んだ。
「一番気になっていたのは、日本人の墓です。それまでソ連は『択捉島には日本人の墓はすでに風化して存在しない』として、墓参団を受け入れてこなかった。だから、日本人が暮していた痕跡と墓を探した。そうしたらあったんです」
町はずれの高台にあるロシア人墓地で日本人の墓を見つけた。
「墓石は倒れたり、埋まっていたりしていた。ロシア人墓地の囲いの土台にされていた墓石もあった」
山本さんはクリル(北方領土を含む千島諸島)区長(クーチェル)から「われわれには日本人の墓を整備するための専門知識がない。専門家を送ってほしい」と頼まれた。
「択捉島から帰ると安倍晋太郎さんを訪ねて、手書きの墓の見取り図と写真を渡した。クーチェルの言葉も伝えた。すると晋太郎さんは、わかった。関係機関にすぐに連絡する、と言った」
日本人墓地の発見は大きく報道され、同年8月には初の択捉島への墓参が実現した。そして翌年5月、安倍晋太郎氏は亡くなった。ソ連が崩壊したのはその7カ月後だった。
「この目で択捉島を見たことで、じゃあ、尖閣諸島や竹島とか、他の国境はどうなっているんだ、と思った。調べてみると、日本なのに行けないことがわかった。つまり、そこも秘境だった。であれば、ぼくがいの一番に撮ってやろうと思った」
■日本の国旗を踏んで上陸
2003年、山本さんは尖閣諸島の魚釣島に上陸した。政治団体・日本青年社が建てた灯台のメンテナンス作業に同行し、彼らの「活動記録を撮影する」という名目だった。
「自衛隊や海上保安庁に、巡視艇や哨戒機に同乗させてほしいと、何回も打診しました。でも、すべて断られました。それで、尖閣を訪れる唯一残された手段である日本青年社の会長に直談判した。ぼくは写真家だから、現場に行けなければ話にならない。そのためであれば、どんな手でも使います」