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「偶然なんですけれど、(今年7月に亡くなった)安倍晋三さんの遺影はぼくが撮影した写真なんです。不思議なことに父の晋太郎さんの遺影もぼくが撮った。親子2代の遺影を写したなんて、これはどういう因縁だろうと思いましたね」
山本皓一(こういち)さんは複雑な表情で、こう口にした。
1990年、日本人ジャーナリストとして初めて北方領土の択捉(えとろふ)島を訪れた山本さんは、以後32年にわたって「日本の国境」を写してきた。そのきっかけの一つが北方領土返還交渉で目にした安倍晋太郎の壮絶な姿だった。
■「金権角栄のお抱えカメラマン」
「とにかく、誰も撮っていないものを一番に撮りたい、っていうのが若いころからの一番のモチベーションだった」
43年、香川県生まれ。日大芸術学部写真学科を卒業後、71年、小学館に入社。主に「週刊ポスト」でグラビアを担当した。
「当時はいい時代でね、バンバン海外に行かせてもらえた」
すると、「国境」への興味が湧いてきた。
「最初は国境への憧れというか、『辺境ろまん』みたいなものだったんです。でも次第に、国境というのはすごいところだなあ、と思うようになった」
当時は東西冷戦の真っただなか。東欧の国境では地雷を埋められていることを示すドクロマークを目にした。戦車もにらみをきかせていた。北朝鮮から板門店を訪れ、韓国との休戦ラインにある緊張感も体験した。
83年、山本さんはフリーになると、誰も撮ったことのない「秘境」を目指した。
「本当は退職金でアマゾンとかに行きたかったんだけれど、とても足りない。でも、探したら東京にも“秘境”があった。(当時の首相だった)田中角栄が住む目白の田中邸ですよ。それで角栄の百面相を追った。そうしたら、面白くなっちゃって、半年のつもりだった撮影が約3年になった」
85年、写真集『田中角栄全記録』(集英社)を出すと、売れに売れた。
「『金権角栄のお抱えカメラマン。金をいくらもらったんだ』って、さんざんたたかれましたよ。当時は『角福戦争』のさなかだった。次に政治家を撮るなら角さんの反対側にいた福田派の安倍晋太郎だなと思った。そのとき秘書としてついていたのが安倍晋三だった。ぼくらは時間待ちなんかでお茶を飲んだりしているうちにだんだん親しくなった」