ここにおいて、敢然と彼女はお江に挑戦する。乳母が生母へ挑戦する――とはおろかな話だが、奇妙なことにこの勝負は、彼女が勝ったようである。

 必死の覚悟で彼女は駿府(静岡)に隠居している徳川家康の許へかけこみ、事の次第を直訴する。家康はそれを聞いて江戸へのり込み、竹千代をそばに招いて、やさしく菓子をあたえ、国松には近づくことも許さず、

「国、これ食え」

 と菓子を投げてやった。

 これで竹千代の跡目相続がきまった――というお福の手がらは大変有名だ。
 が、この話はすこしうますぎる。真相はもっと複雑で、当時有力家臣の間に竹千代派、国松派の勢力争いがあり、竹千代派がお福の盲愛ぶりを利用したのではないだろうか。

 竹千代は元服して家光と名乗り、やがて父秀忠のあとをついで将軍になる。が、こうなっても、お福は終生世話をやきつづけた。

 お福の目に映った第一の危険物は弟の忠長――かつての国松だ。いつまわりからかつがれて将軍乗っとりをはかるかもしれないというので、口実をもうけて彼につめ腹をきらせてしまった。

 表向きには、この事件とお福とはかかわりがないようにみえるが、いま鎌倉の東慶寺にのこる棟札には、忠長の死後、彼の住んだ御殿を東慶寺に移したのは「春日局のおとりもちだ」と書いてある。

 そのスゴ腕は、朝廷に向かってもふるわれた。

 将軍秀忠時代のころ、彼女は上洛して後水尾帝に拝謁している。「春日局」という名は、そのとき朝廷からもらった身分のある女官の名前で、うわべだけを見れば、「身にあまる光栄」というところだが、この拝謁には下心があった。お福はその席で、なんと、

「そろそろ、御退位を……」

 とほのめかしたのだ。お福の政治力は男子そこのけと言うべきだろう。

<追記>執筆当時は、通説に従ってここまで書いてきたが、現在、これらの通説のほとんどが否定されようとしていることをつけ加えておきたい。

 それによると、夫の浮気を怒って相手を殺して家を飛びだしたというのはウソ。都で将軍家の乳母募集の高札に応募したというのもウソ(乳母を高札で募集するようなことはない。コネを使っての就職である)。家光の生母お江に対抗意識を燃やし、家康に訴えたというのもウソ。そのため駿府まで走っていったなどは真っ赤な大ウソ。後水尾天皇に譲位を迫ったというのもウソ……。

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