「ちょっとおいで」

 正成の寵愛をうけている女中のひとりをなにげなく呼びつけたお福は、

「覚悟しや!」

 いきなりその女を殺してしまったのだ。そのまま「もう家にはおりませぬ」と宣言してお福は子供をおきざりにして家をとび出してしまう。

 が、この残忍さは、夫を独占できなかったくやしさの表れであり、その独占欲は、幼い時からつづいた欲求不満の裏がえしなのだ。そして、この独占欲が彼女の運命をきり開くのである。

 夫の側室を殺して家をとび出したお福は、そのまま京へのぼった。そして彼女が町の辻にたてられた高札を目にしたことが、彼女の生涯を決定した。

「将軍家康公の嫡孫竹千代君の乳母募集!」

 子供を産んだばかりのお福はまさに有資格者であった。

「これだ!」

 と思うと決心は早い。さっそく申し出ると即座に採用決定、ここにお福は新しい生活の第一歩をふみだすのである。

 彼女は竹千代を熱愛した。憎らしいと思えば夫の妾を殺すこともやってのけるというのは、心が冷たいからではなくて、夫を愛しすぎていたからだ。そして報われなかった夫への愛のかわりに、彼女は狂おしいまでの愛情を竹千代にそそぎこむのである。

 あるとき竹千代が天然痘にかかると、彼女は薬断ちの願をかけ、ついに生涯薬をのまなかった。戦前はこれを「忠義」の見本としてほめたたえたが、これは、いまひとつ、女の心の底にいきづく、欲求不満のすさまじさを見落としている感じである。

 熱愛が深まれば深まるほど彼女は竹千代を独占しなくてはいられなくなる。

 ――私は若君のもの。そして若君は私だけのもの……。

 と思ったとたん、彼女は目の前におそるべきライバルを見出す。家光の生母の、お江の方――秀忠夫人だ。そしてそれを意識したとき、彼女の独占熱はさらにもえあがり、しだいに被害妄想に変わってゆく。

 ――若君を愛しているのは私だけ。御台さまなんか、ちっとも若君のことを思っておいでにもならない。あの方のかわいいのは弟の国松さまです。御台さまは国松さまを将軍にしたいのです!

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