――言えない。

 でも向こうもわかってはいるんだと思う。寿一にしてもそのころ、心理学教室で本当の指導教員っていなかった。東大の心理は認知神経科学が強いんです。丸ごとの個体を扱っている人はすごく少なくて、彼はまったくの無指導、放置状態にあったから、人類学教室の先生たちに教えてもらっているわけ。だから、人類学教室のあの雰囲気に本当に反論するっていうことは、なかなかできなかったんでしょう。

 私は人類学教室の助手やポスドクたちに愚痴ったことはあります。とくに私の指導教員のパワハラ・セクハラがひどかったから。同じサルの研究者として、あれはちょっとひどいと。そしたらね、「それはわかるけど、自分たちは霊長類学・人類学やっていくうえであの人と付き合わないわけにいかないから、これまで通りやっていく」って言ったの。それで私は「だったらあなたたちも私の敵ね」って言った。「そんなこと言わないで」とか言うから、「あの人に何も反論もしないんでしょ」って言ったら、「自分の人生を考えたら、できない」って。

 だから私、「あんたも私の敵ね。さよなら」って言って、人類学会を辞め、霊長類学会を辞め、全部辞めた。

――それ、いつの話ですか?

 1983、4年ぐらい。それで私のよりどころは、一つは日本動物行動学会だったんだけど、その後、人間行動進化学研究会というのを1999年に寿一と一緒に作った。今は学会になっています。

――すごいですね。博士号を取ったのはいつですか?

 1986年です。あ、だから人類学会と霊長類学会をやめたのは86年ですね。ただ、その前からもう辞めるって言っていました。指導教員ともどうしても縁を切りたかったから、助手のまま86年秋にイギリスのケンブリッジに行きました。

――ケンブリッジに行くモチベーションはそこだったわけですか。

 それと、本当の行動生態学を知りたかったから。その中心地がケンブリッジだった。指導教員には大反対されたけど、ブリティッシュカウンシルに35歳以下が対象の奨学金があって、それを取れたので行きました。「夫を置いていくのか」とも言われたし、トシ君も「なんで僕を置いていっちゃうの?」というところもあった。

 でも、行ったらすごく楽しかったし、すごく人間的に成長しました。大型の哺乳動物の研究をしたいという願いが叶ってダマジカと野生ヒツジの研究をし、英国のインディビデュアリズム(個人主義)というのを身につけて帰ってきました。

――帰ったときに指導教員は?

 まだいました。まるで私が昨日までここにいたかのような話し方をしてましたね。私のほうはそれからの職探しがすごく大変でした。

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