女性比率の低い日本の学術界で奮闘する女性研究者たちに話を聞くインタビューシリーズ。進化生物学者の長谷川真理子さんの後編は、夫の長谷川寿一さん(進化心理学者。東大教養学部助手などを経て東大大学院総合文化研究科教授、現在は名誉教授)と歩んできた研究者人生について振り返る。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子)
>>【前編:女性の国立大学長は日本で5人だけ! 時代を切り開いた総研大・長谷川真理子さんの原点とは】から続く
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――お二人の馴れ初めは?
高校の同級生です。でも、高校のときは、私は他に好きな人がいた。東大の2年生のとき駒場祭で私が何かの劇に出たのを昔の同級生たちが応援に来てくれて、その中にいたんです。それからお付き合いが始まった。
彼は元々理系で医学部を受けたんだけど浪人して東大の文IIIに入った。それで文化人類学をやるか心理学をやるか迷って、結局文学部の心理に行った。私は理学部の自然人類に行ったけど、同じようなことを解明したいと目指したんですね。アプローチは違うし、学部も何も違うんだけど、問題意識は共通に持っていた。
付き合い始めてからずっと、何を研究しようとか、どの学会に行こうとか二人で話しながらやってきました。一緒に調査したニホンザルで卒論を書き、修士課程2年生のとき結婚しました。1977年です。結婚式で人類学教室の主任が「これで真理子さんは引退するのだろうけど……」と挨拶したので、私は怒り心頭で、披露宴で以後ずっと仏頂面をしていました。
――アハハ。当時は、女性が学問をするなら未婚が当然という空気がありました。
そう、男尊女卑の文化の真っただ中。二人で英語の論文を書いたとき、著者名の順番で結構もめたんだけど、私の側の人類学教室のみんなが「当然、寿一が先だ」と言う。そして、そうなった。
そもそも自然人類学って、日本は弱いんですよ。教育体系が整っていない。当時、東大は教授2人、助教授2人ぐらいの小さい研究室で、院生も1学年4人だけ。化石をやっている人は化石だけ、遺伝の人は遺伝だけ。ほかにカバーすべき分野がいっぱいあるのに、その教育ができていなかった。しかも、教えてくれた先生たちが「自然人類学というのは何一つ独自のディシプリンのない、寄せ集めで」みたいな言い方しかしなかった。今でいえば、いろんなことを学際的にやって横につながってメタの目を持つのが自然人類学っていうことでしょ。そういう前向きの言葉はいっさいなかった。