幕末から明治中期にかけて活躍した浮世絵師・月岡芳年の手になる「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」(1873年/部分)
幕末から明治中期にかけて活躍した浮世絵師・月岡芳年の手になる「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」(1873年/部分)
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 63作目のNHK大河ドラマどうする家康」の放送が始まっている。その主役と言えば、波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生を送った末に戦国の世を終わらせ、天下泰平の世を築いた徳川家康だ。

【画像】数多く描かれたなかでも、よく知られる家康像はこちら。

 家康が、江戸時代260年の礎を築いたのは、生死すら危ぶまれた状況を何度も切り抜けた後のこと。発売されたばかりの『古代から現代まで時代の流れが劇的にわかる日本史年表』では、その家康の生涯を「生誕から三河統一まで(1542~1566年)」「織豊政権下の大名だった時期(1569~1598年)」「関ケ原の戦いの頃から江戸幕府の開府、死去まで(1599~1616年)」の3期に分けた年表(「深掘り年表」と呼んでいる)で紹介している。

 三河統一までの青年期も、まさに苦難の連続であった。織田家と今川家の人質という境遇もさることながら、この時期最大の危機といえば、「どうする家康」第1回で描かれた桶狭間の戦いであろう。
  
 時は永禄3(1560)年、家康の主君の今川義元が2万5千とも言われる大軍を率いて尾張へ侵攻した。そして、降りしきる雨の中、桶狭間(田楽狭間)で止まっていた今川軍を織田信長の軍勢が急襲し、義元はあえなく討ち取られた。奇襲だったのか、正面攻撃だったのか、事の詳細は歴史研究家の手にゆだねることとして、ここではその後の家康について触れてみたい。

 桶狭間の戦いで大高城に布陣していた家康は、義元が討たれた後、わずかな手勢を率いて大樹寺(だいじゅじ/愛知県岡崎市)という名の寺に逃げ込んで命を永らえたと伝わる。大樹寺は、応仁の乱の頃に松平家(後の徳川家)の先祖が創建した、阿弥陀仏(あみだぶつ)に極楽往生を祈る浄土宗の寺である。

 若き家康は桶狭間の敗戦をうけて、潔く祖先の墓前で割腹しようとしたが、大樹寺の住職だった登誉(とうよ)上人(「どうする家康」第2回で里見浩太朗が演じた)に「死中に活を求めよ」と諭され、自刃を思いとどまる。そして、登誉上人は急いで布を裁ち、「厭離穢土 欣求浄土」と大書きした旗をつくったという。

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『徳川実記』が伝える家康の姿