門田博光さん
門田博光さん
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 プロ野球、南海ホークスなどの主砲として活躍した門田博光さんが亡くなった。享年74。豪快なスイングでライトスタンドに叩き込むホームランでファンを魅了した。通算567本塁打は歴代3位だ。駆け出しだったころの筆者の取材にも、長時間打撃理論を語り続けてくれた、心底野球好きの人だった。

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 南海時代、門田さんとともにプレーした江本孟紀さん(75)は、

「江夏(豊)から電話がきて、門田がどうも亡くなったらしいと聞いてびっくりした。僕と同じ学年で、もっとプロ野球に貢献できる男だったのですがね」

 と門田さんの死を悼んだ。

 江本さんがエースで、野村克也さん(故人)が正捕手兼任監督で4番打者、野村さんの前の3番を打つのが門田さん、という1970年代前半の南海は強かった。

 野村さんがフロントとのごたごたもあって77年に監督を解任され、南海を去ってからは、まさに看板選手として古豪のチームを門田さんが支えた。

 最も注目されたのは、選手としては晩年の1988年だ。44本塁打、125打点で、ホームラン王と打点王の2冠を獲得し、MVPにも選出された。チームが5位と低迷したにもかかわらず異例のこと。実に40歳の年で、「中年の星」として、大きなニュースになった。

 この同じ年のシーズンオフ、パ・リーグは大きな変革期を迎えた。南海はダイエーに、阪急ブレーブスはオリックスに「身売り」し、経営権を手放した。ダイエーは本拠地を福岡に移転することを公表した。

 しかし、門田さんは慣れ親しんだ関西でのプレー継続を希望。関西に本拠地を持つオリックスへの移籍など、その去就が注目された。

 私は当時、まだ駆け出しの記者で、週刊朝日のデスクから、

「なんでもいいから、門田さんを直撃して、ひとことでも聞いてこい。聞けるまで帰るな」

 と命じられた。

 真冬の寒い中、奈良にある門田さん宅に日参し、インターホンを押し、張り込んだが、まったく姿を確認できない。

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