無惨を前にしても緊張感なく話し続ける童磨、無言のままの猗窩座、言葉少なく無惨の話を聞く黒死牟らの様子と比べると、無惨の言動に逐一翻弄される玉壺と半天狗は、見ている者に彼らが「小物」であることを印象づけた。
■上弦の鬼の中で「異質」なのは誰か?
上弦の鬼たちを比較すると、そのキャラクターデザイン、精神面の描写という点において、半天狗と玉壺は異質である。童磨と猗窩座は外見の一部には鬼としての特徴は備えており、黒死牟も人間時代と比べると顔の“ある器官”に大きな変化が見られるが、無限城に姿をあらわした段階では、体つきは人間時代のままである。
しかし、階段の手すりごしに身をひそめ、小柄な老人のような風体の半天狗と、陶器製のような壺から半身をヌルリとあらわす玉壺には、肉体的な意味での「強さ」はうかがえない。いかにも鬼、妖怪、怪物的な姿ではあるが、戦闘力よりも、不気味さのインパクトの方が強い。
しかし、この2体の鬼は「目」と「口」に特徴を秘めている。そして、この「目」と「口」こそが、彼らの性格と性質を表現している部分なのだ。
■玉壺と半天狗の「目」と「口」
玉壺は、「芸術家気取り」という不思議な鬼で、自分が作った壺をすばらしい芸術品、傑作だと信じている。しかし、そんな玉壺には、目のある場所に目がなく、その目は額と口元に置かれている。天才だと自称する口は、本来、目が置かれる部分にあるのだ。玉壺の天才発言と、芸術への審美眼がチグハグなものであることは、一見すると奇抜な、彼のキャラクタービジュアルによって表現されている。玉壺は自分の作った「作品」を正面から見ることができているのか。口から出る、自画自賛の言葉がむなしく響く。
その一方で、半天狗は目が不自由なふりをしており、その外見から周囲にもそのように思われているのだが、実は彼の目は見えている。そもそも彼の姿は、ツノ以外、人間の頃からさほど変化していない。半天狗は、人間だった頃から、見えるはずの目を開こうとせず、現実から目を背けながら生きてきた。鬼化後も自分を「小さく弱き者」と名乗り、社会の被害者であると、自分の利益のためだけに、その口でうそを重ねてきた。