■玉壺と半天狗に立ち向かう2人の「柱」

 玉壺も半天狗も、事実をねじ曲げる“虚構”を口から出し続けるタイプの性質を持つ。彼らの瞳には、世の中の真実も、自らの真の姿すら映らない。

 刀鍛冶の里で、そんな彼らに立ち向かう鬼殺隊の「柱」は、霞柱・時透無一郎(かすみばしら/ときとう・むいちろう)と、恋柱・甘露寺蜜璃(こいばしら/かんろじ・みつり)である。無一郎は玉壺と対峙し、蜜璃は半天狗との戦いがメインになるが、これら「鬼と柱の組み合わせ」には重大な意味が隠されている。

 刀鍛冶の里で詳細が明らかになるが、無一郎と蜜璃には、この物語の中で「真の自分」の生き方と向き合う機会がおとずれる。かつて自分の肉体的特性を恥じて、自分にうそをついて生きようとした蜜璃は、あるがままに生きることによって、自分の強さと弱さを見つめ直す。過去の記憶を失っている無一郎は、なぜ自分が強くなろうとしたのかという本心にあらためて気づくことになる。

 彼らは刀鍛冶の戦いの中で「真の自分」を再び取り戻す。そして「他者のために自分の強さをささげる」という本来の決意を改めて思い出す。

■玉壺・半天狗との戦い

 刀鍛冶の里のキーワードは、キャラクターたちの「過去」である。鬼滅という物語には、何人かの「天才」が描かれているが、彼らはその類まれなる才能がゆえに、過酷な運命を背負わされている。そして、時代に名を残すほどの天才と、その影にたたずむ無名の者たちの運命が重なりあって、物語をつむぎ出す。

 自分を過大に評価し、周囲の目を気にしてばかりの玉壺は、「真の天才」である時透無一郎と、刀鍛冶の技を思い知ることになる。虚偽の弱さで他人を利用し続けてきた半天狗は、強い自分を肯定することで「真の強さ」を獲得した甘露寺蜜璃と対峙することになる。無一郎と蜜璃以外に、刀鍛冶の里で参戦するのは、過去の自分と真摯に向き合おうとする、炭治郎、禰豆子、そして玄弥だ。

 玉壺・半天狗という「鬼らしい鬼」の姿に込められた意味を確認しながら、上映とアニメ新シリーズを楽しみたい。

◎植朗子(うえ・あきこ)
1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。AERAdot.の連載をまとめた「鬼滅夜話」(扶桑社)が好評発売中。

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