江戸後期に建築された自宅をバリアフリーに変えた。地元愛が強い渋谷は、過疎化が進む田麦俣地区の復興を計画中で、里山文化を生かしたキャンプ場の造成を父や兄と思案している。右は父・一志(撮影/植田真紗美)
江戸後期に建築された自宅をバリアフリーに変えた。地元愛が強い渋谷は、過疎化が進む田麦俣地区の復興を計画中で、里山文化を生かしたキャンプ場の造成を父や兄と思案している。右は父・一志(撮影/植田真紗美)

「おなかの具合が悪いと知らない間に便が漏れたり、尿が尿取りパッドから溢(あふ)れることもあり、悲しい状況になってしまったことが間々あります」

 どんな時にどんな状況で排泄に失敗し、どうやって汚物処理したかを赤裸々に語っているのだ。

 なぜ、そこまでさらけ出すのか。渋谷は、社会の目を変えたいから、と毅然(きぜん)と言う。

「正直、歩けなくなったことより人前で漏らしてしまうことの方がずっとつらい。それでも障害を理解している人から見られるのと、理解の無い人から見られるのでは大分違う。例えば、看護師さんや介護士さんの前で漏らしても比較的ショックが少ないのは、障害があって漏らすのは仕方がないとわかってもらえているから。より多くの人に障害の現実を知ってもらい、街中で失敗してしまっても、気にならない社会になればいいなと」

 渋谷が事故に遭ったのは18年7月、26歳の時だった。地元の工業高校を卒業しカメラ工場や地元新聞社に勤務した後、父・一志(70)の仕事を引き継ごうと茅葺(かやぶき)屋根を修理する茅葺職人を志した。その僅(わず)か3カ月後、父と山形県内の古民家の修繕作業中、組んだ足場から落ち、庭池の石に背中をしこたまぶつけた。下半身は池に沈んだままだが、自分で這い上がれなかった。

 じんじん身体が痺(しび)れてくる中、父が救急車を呼んでいる間に辛(かろ)うじて動いた手で自撮りを始めた。

「体が動かなくなるかもしれないと思ったけど、それなら一生に一度のことなので記録しておかなければ、と咄嗟(とっさ)に思った。今考えれば、動画で撮らなかったことに悔いが残ります」

 病院に運ばれても取り乱すことはなかった。診察室で看護師に耳ピアスの取り方を教え、爪のジェルネイルは自分で剥がした。

 ただ、手術室に運ばれるとき、父が「ごめんな、ごめんな」と涙している姿を見るのはつらかった。「お父さんは関係ないよ」と何度も制したが、「父は一生、責任を感じてしまうんだろうな」と思った瞬間、初めて涙が流れた。

 手術後、医師からこう告げられた。

「脊髄損傷で下半身がまひして動きません。歩けないので、今後は車いすになります」

 医師の話を渋谷は淡々と聞いていた。車いすユーザーになることは、ケガした瞬間からうすうす感じていたし、起きたことを悔やんでもどうなるものでもない。取り乱す時間があったら、一刻も早く車いすでどうやって前向きに生きていくか、そのための情報が欲しかった。

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