そんなことを書きながら、私は今「ゴボウと豚バラ肉の煮物」の残り汁のことを考えている。はっきり言ってこの原稿に集中していない。
ああ残り汁……。私はうまくいった時の残り汁を捨てることが出来ない。できることならそれを翌日に再利用したい。そう、例えばうどんのおだしにするとか、あるいは、おじやに入れてもいいし、とろろ昆布を入れてお湯を足し、万能ネギをばら撒いておすまし汁にしたっていいじゃないか。私の頭は、その食物が現役として食べられているその時から、契約解除以降の再生プランのことまで考えている。スイッチが入るのか、ヤヌスの鏡じゃないが、諸条件が整うと思考が勝手に飛び立つ。白目になっているのかもしれない。
また、冷蔵庫の中に何があっても、有るものでなんとかするのが下流グルメ道だ。そのものを作るために買い出しに行くのは浅ましい上流のやること。大根と豚こまとほうれん草があったらそれでなんとかするのである。人に見せるようなものでもない。そりゃよそ様に見られる時は買い物に行くべきだ。でも、いるのはせいぜい、妻と、子ども、金魚ぐらいだろう。気取る必要はない、味付けもフィーリングで醤油と中華だしとごま油で十分だ。その人の名前も知らない、行きずりの恋みたいで良い。後に、まるで本妻に収まるように、わが家のスタメンメニュー入りすることだってありうる。
「下流グルメ」。自分でつけといてあまり良くない名前だ。メシに「上と下」という考えを持ち込んでいる。生活痕が見える料理、否、料理が1だとすると、1未満の食べ物。
人が本来隠しているような余分を見つめていたい。それが私のグルメなのかも。
※AERA 2019年4月8日号