エース番号をつけながら3年で戦力外となった野村亮介(写真提供・中日ドラゴンズ)
エース番号をつけながら3年で戦力外となった野村亮介(写真提供・中日ドラゴンズ)

 巨人なら18番、中日なら20番といった具合に、各球団には代々受け継がれているエースナンバーがある。

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 だが、中には栄光の番号を背負いながら、活躍できずに終わった投手もいる。

 まずDeNAの17番。大洋時代の秋山登から山下律夫、斉藤明雄、盛田幸希ら、そうそうたる顔ぶれが並ぶなかで、持てる力を発揮できずに終わったのが、矢野英司だ。

 法大の最速151キロ右腕は、1999年に逆指名の2位で横浜入り。盛田の近鉄移籍後、空いていた17番を貰い、巨人のドラ1・上原浩治とともにセ新人王の有力候補に挙げられた。

 だが、プロ初登板となった同年4月3日のヤクルト戦、3対3の延長12回に5番手としてリリーフした矢野は、1死からペタジーニを四球で歩かせたあと、池山隆寛、スミスに連打を浴び、ほろ苦いプロ初黒星を味わう。

「真っすぐはある程度通用することがわかったんで、今度はやってやろうと思います」とリベンジを宣言した矢野は、同13日の阪神戦で1対0の8回2死からリリーフすると、無失点で大魔神・佐々木主浩につなぎ、勝利をアシスト。翌14日の阪神戦も4対3の8回を無失点に抑え、“中魔神”の異名をとった。

 そして、4月27日の広島戦でプロ初勝利を挙げたが、1点ビハインドの8回2死、緒方孝市に中越え3ランを浴びた直後、味方打線が一挙5得点の大逆転劇を演じ、棚ぼたの白星が転がり込んでくるという不本意な内容に、本人は「うれしいけど複雑です」と冴えない表情だった。

 5月16日の巨人戦で初先発し、上原とのルーキー対決になったが、二岡智宏に先頭打者本塁打されるなど、初回の3失点が災いして2敗目。結局、1年目は30試合登板の2勝5敗1セーブ、防御率6.16と期待に応えられなかった。

 翌00年5月7日の中日戦、6回1失点で先発初勝利を手にした矢野だったが、01年から3年間は右肘故障の影響で1軍登板なし。近鉄を経て楽天移籍後の06年も1軍登板ゼロのまま、オフに戦力外通告。けがに泣かされつづけた8年間だった。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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涙ながらに投手断念を告げた広島の14番