広島のエースナンバーといえば、長谷川良平、佐々岡真司、前田健太と受け継がれ、現在は森下暢仁がつける18番がおなじみだが、外木場義郎、津田恒実、大瀬良大地の14番も該当する。

 外木場の引退後に14番を与えられながら、1軍登板5試合で終わったのが、1980年にドラ1で入団した片岡光宏だ。

 前年のセンバツで浪商・牛島和彦とともに大会屈指の本格派右腕と注目された186センチ、86キロの“金の卵”は「根性は鈴木(啓示)さん、技術は江夏(豊)さんを見習いたい。この背番号を汚してはいけないという使命感で一杯です」とプロでの飛躍を誓った。

 1年目は課題の制球を克服し、フォークボールを習得したことで、2軍のエースとして、ウエスタンで7勝4敗、防御率2.40の好成績。翌81年も、7月1日の中日戦で9回に3番手としてプロ初登板をはたしたが(1回を3安打1失点)、その後は右肘を痛めて低迷する。

 そして84年夏、ルーキー・紀藤真琴と並んで投げていたときに「(速球で)勝てない」と痛感し、その夜、2軍監督に涙ながらに投手断念を告げた。

 内野手として背番号も心機一転44番に変えて再出発した片岡は87年、2軍で3本塁打を記録した長打力が認められ、5月に1軍登録されると、7月9日の巨人戦で8回に劇的な代打逆転2ラン。「辞めようと思ったこと?そりゃ、何度もありますよ。でも、ここであきらめるより、本当にガタガタになるまでやってみようと思いました」と“8年目の開花”に大感激だった。

 さらに同11日の阪神戦でも2試合連続の決勝弾となる代打サヨナラアーチを放ち、“ミラクル本塁打男”として名を残した。

 最後は中日の20番。杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄が背負い、今季は楽天から加入した涌井秀章がつけている。

 そんな栄えある歴史の中で、20番を貰いながら、わずか3年で引退したのが、15年にドラ1で入団した野村亮介だ。

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エース番号は真のエースになってからつけるべき?