経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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今日の講演先で、次の質問を頂戴した。「最近のメディアについて、どう思われますか?」。よく出る質問だ。
このメディアという言葉、いつから使われ始めたのだろうか。ある時までは、もっぱらマスコミといっていた。それがいつの間にかメディアになった。マスコミはマスコミュニケーションだ。マスコミのマスは「大量の」の意。コミはコミュニケーション。大量の情報を伝達する。多くの人々を対象に発信する。
メディアはどうか。メディアはミディアムの複数形だ。ミディアムは媒体の意だ。巫女さんとか、霊媒の意味を指すこともある。中間や中庸の意味もある。
どうも、このネーミングが定着したことに問題があるように思えてきた。名は体を表す。媒体に主張はない。巫女さんもまた然りだ。あっちが言っていることをこっちに伝える。単にそれだけだ。媒体は考えない。調べない。追求しない。巫女さんもそうだ。媒体に感情はない。巫女さんもそうだ。媒体は疑り深くない。巫女さんもそうだ。
あれこれ調査し、追求し、考え、主張する。時には怒り、時には嘆き、時には感動する。それらの思いを大量に、多くの人々に投げかける。それが報道であり、記者稼業だろう。記者さんは、媒体か。記者さんは巫女さんか。
筆者は、記者の皆さんにジャーナリストであって頂きたい。いつも、そう思っている。だから、質問にもそうお答えした。メディアという言葉を使い出したことに問題がある。ジャーナリズムが減っているように感じる。そう言った。
ジャーナリストはジャーナルを書く。ジャーナルは日誌だ。日記でもある。日記には書き手の思いがこもる。魂が宿る。どんなに淡々として日々の記録であっても、そこに、書き手の個性が滲み出る。
ジャーナリズムは、闇を照らす光でなければならない。闇に乗じて密かに行われようとすることを、暴き出さなければいけない。秘められた下心を明るみに引っ張りだす。媒体にそれはできない。巫女さんにも(少なくとも単独自力では)それはできない。メディアはやめて、ジャーナリズムでいこう!
※AERA 2017年12月4日号