そこで、今よく言われているのは「バナキュラーライゼイション(vernacularlization)」というやり方です。バナキュラーとは「その土地の固有の様式」といった意味。つまり、人権という考え方を地元の言語にうまく落とし込んで、地元の人に受け入れられやすくするというものです。「シュガーコート(砂糖の膜で包んで飲みやすくする)」と言ったりもします。
たとえば、「この国は女性蔑視の酷い国だ、女性の権利を向上しろ」とアメリカ人がいくらうるさく言っても、ジェンダー関係についてアメリカと全く違う理解をもつ国はなかなか受け入れません。現地の女性自身も反発したりします。それをうまく地元の人たちが受け入れやすい言葉にするわけです。
その際は、地元のリーダーに受け入れてもらうことが大事です。地元のリーダーはたいてい年を取った男性です。「あいつが諸悪の根源だ」と既存のリーダーを排除するような発想をもちやすいのですが、発展途上国で成功した例を見ると、そういう人を説得したほうが結構スムーズに人権の改善が進んでいます。
日本の制度改革もそれと似ているところがあると思います。もちろん、「日本は後れているからこれを変えなければ駄目だ」と言って聞いてもらえる分野もあるでしょう。たとえば、経済の分野は「このままでは危ない」という実感をもっている人が多く、聞く耳をもつ人が増えてきていると思います。ただし、そうだからと言って、たとえば「老害で年を取ったトップが良くない」と強く叩き過ぎると、そこから反発が出て、うまくいくものもうまくいかなくなるでしょう。
要するに、制度としてこれはうまくいくだろうというものを適切に選び取って、日本の社会や政治、経済のあり方に根づかせる努力を重層的にしていく必要があるわけです。
■日本を外から眺めないとわからないことがある
中内:これだけインターネットが発達して、SNSでいろいろな情報の交換ができるようになると、ずっと日本にいても、世界のことを十分理解できると考えがちです。しかし、本当はほとんどわかっていない。私自身、10年前にサバティカルでケンブリッジ大学とスタンフォード大学に半年ずつ滞在して、そのことを痛感しました。