当時のフィンランドは、第2次世界大戦の敗戦国として、ソビエト連邦に支払う戦争賠償金が国内経済を圧迫していた。だが、物資が不足した状況であっても、自由な空気のなかで新しい起業家精神が育ち、戦後モダニズムの黄金期を迎えようとしていた。

 マリメッコの創業期を支えた、初の社員デザイナー、ヴオッコ・ヌルメスニエミは当時のことをこう語っている。

「第2次世界大戦中、フィンランドには何もなくなってしまって、戦争が終わったときには(文化的には)まったくの空っぽの状態だった」

 そこにアルミ・ラティアと彼女のもとに集まった才能あるデザイナーたちが新しいデザインを生み出していったのだ。

●日本人のデザイナーも

 ヌルメスニエミは、入社すると図案と服、両方のデザインを担当した。シンプルなシェイプとカッティングを使った服は、ボディーラインを締め付ける服から、女性たちを解放した。

 手がけたのはシンプルなストライプで構成されたワンピースや「エラマン・ランカ」。そしてヌルメスニエミといえば有名なのが、「ヨカポイカ(すべての少年)」。マリメッコ初のユニセックスのシャツだ。

 ヌルメスニエミの斬新なデザインは、国内の保守的な層からの反発もあり、むしろ外国で先に評価されてゆく。

 初めての展覧会はフィンランドで好評を博し、他の国々へと巡回。そして何より、60年、ジャクリーン・ケネディがヌルメスニエミのドレスを着るようになったことで、アメリカで爆発的な人気を得るようになったのだ。

 アンニカ・リマラ、リーサ・スヴァントら名高い女性デザイナーたちが活躍した印象が強いマリメッコだが、初の外国人デザイナーは日本人の脇阪克二だ。脇阪は69年に発表したプリント・ファブリック「ユメ(夢)」を皮切りに、具象的でカラフルな作品を生み出していく。

 74年には石本藤雄もマリメッコに入社。石本は「(マリメッコに提案する)デザインについては、結局自分自身が出なければダメだと思っていました」と語っている。

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