平井先生は「もっとできる」と、本当に限界を決めなかった。100メートルのパワー勝負と200メートルの持久力的なレースの両方で勝てたのは、それが大きかったと思いますね。この時期に(ウェートトレーニングや泳法分析など)「チーム北島」と呼ばれる専門家の支援体制ができました。肉体改造にも取り組んで、痛みが出たりトレーニングの時に違和感を覚えたりしたこともあったのですが、筋力アップに合わせて泳ぎ方を改良しながら記録を上げていきました。

──04年アテネ五輪の100メートル、200メートルで2冠を果たします。

 今振り返ると、泳ぎは未完成でした。力とパワーを水の中で十分に生かすことができていなかったし、うまく頭と体が3次元的にリンクしていなかったというのは確かです。

──100メートルに勝利した後、ペン記者の取材エリアに来た時には涙が止まらない状態でしたね。その直前、テレビ取材で「チョー気持ちいい」と言った時も涙をこらえていた?

 間違いなくそうです。言いながら、半ばちょっと泣いてますからね(笑)。会場にいたチームの仲間や記者のみなさんからも金メダルを期待されていた。あの時の担当記者、ドライじゃないんですよ。北島ならなんとかしてくれる、一緒に歩みたいという方ばかりで、取材をめぐって平井先生と本気でけんかするし(笑)。周囲の人はだれもが金を取らせたいと思ってくれて、それは僕が一番感じていたから、金を取って自分もうれしかったけど、周りの人がよろこんでくれるのを肌で感じて、やっぱりうれしくて、泣きましたよね。

──08年北京大会では日本競泳史上初の五輪2大会連続2冠を達成しました。

 アテネの時よりも絶対的な自信がありました。海外のライバルが変わっていく中で勝てたというのは大きかったですね。強い思いでアテネ五輪の金を取った後、自分自身がどうあるべきかというのを自問自答した瞬間もありました。その中で改めて指導者に平井先生を選んでタッグを組めたこと、「お前なら必ず金メダルが取れる」と信じて支えてくれた周りの人がいたからこそ、結果を出すことができたと思います。

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100メートルで勝った後の言葉が…