[左]青木剛(あおき・つよし)/1947年生まれ。日本水連会長。早大卒業後、東京SCで選手指導にあたる。2000年シドニー、アテネ両五輪水泳監督。元JOC専務理事。15年から現職。[右]中村礼子(なかむら・れいこ) 1982年生まれ。北京五輪女子200メートル背泳ぎで出した2分7秒13は今も日本記録。東京SCに所属し、講演活動などをしている。(c)朝日新聞社
[左]青木剛(あおき・つよし)/1947年生まれ。日本水連会長。早大卒業後、東京SCで選手指導にあたる。2000年シドニー、アテネ両五輪水泳監督。元JOC専務理事。15年から現職。[右]中村礼子(なかむら・れいこ) 1982年生まれ。北京五輪女子200メートル背泳ぎで出した2分7秒13は今も日本記録。東京SCに所属し、講演活動などをしている。(c)朝日新聞社
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49年の日本選手権で昭和天皇に選手を紹介する田畑政治(手前左)(c)朝日新聞社
49年の日本選手権で昭和天皇に選手を紹介する田畑政治(手前左)(c)朝日新聞社
国立競技場を訪れた田畑政治=田畑家提供(c)朝日新聞社
国立競技場を訪れた田畑政治=田畑家提供(c)朝日新聞社

「水泳ニッポン」の礎を築いた田畑政治(まさじ)が主人公のNHK大河ドラマ「いだてん」は、1964年東京五輪の招致に向けて山場を迎える。日本水泳連盟の青木剛会長、競泳女子200メートル背泳ぎで五輪2大会連続銅メダルの中村礼子さんを招いたトークショー「水泳ニッポンを築いた男 田畑政治」(朝日新聞社主催、浜松市共催)を誌上再現する。コーディネーターは早稲田大学水泳部出身で本誌編集長代理の堀井正明。

【写真】昭和天皇に選手を紹介する田畑さん

*  *  *

──青木さんは、東京スイミングセンター(SC)で田畑さんと一緒に仕事をされていました。

青木:大学を卒業してすぐ東京SCへ入りました。69年、設立の翌年です。東京SCは64年東京五輪で結果を出せなかった日本水泳の再建のために、田畑さんが働きかけてできたと考えていいと思います。東京SC会長の田畑さんの下で、指導者として選手育成に努めました。田畑さんは、とにかく早口でした。私が半分くらいしか理解できなくて、先輩におしかりを受けたことがあります。「ところで先輩はどのくらいわかりますか」と聞いたら、「俺も7割ぐらいだ」と(笑)。当時すでに70歳を超えていましたが、非常にエネルギッシュで、「いだてん」に出てくる若い頃のイメージは、まだ残っていました。

──中村さんは世代が違うわけですが、田畑さんのことはご存じでしたか。

中村:2004年アテネ五輪の前年から東京SCにお世話になりました。東京SCでは11月に招待記録会という大会があって、最優秀選手に贈られるのが田畑杯なんです。「いだてん」のドラマを見て、田畑さんの業績がわかってきました。東京SC相談役の岩井孝雄さんにお聞きしたら、水泳に対して純粋で熱い思いをお持ちだったと。プールは明るいほうがいいという田畑さんの意向を受けて、東京SCのプールは設計されたそうです。施設にも田畑さんの思いが込められているのだな、と実感しました。

──田畑さんは1898(明治31)年に浜松市の造り酒屋に生まれました。現在の東京大学を卒業し、朝日新聞社に入社して政治記者になります。休みのたびに浜松に帰り、水泳指導にあたっていたようです。

青木:浜松は昔から本当に水泳が盛んなところで、遠泳もよく行われていました。田畑さんをはじめとする多くの水泳の指導者が輩出して、選手では32年ロサンゼルス五輪男子100メートル自由形金メダルの宮崎康二さん、戦後に男子自由形で世界記録を連発した古橋広之進さんらが生まれたところでもあります。

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