──戦前の日本の水泳の栄光は長くは続きません。戦争で選手強化もままならない時期が続きます。戦後の48年ロンドン五輪に敗戦国の日本は出場できませんでした。それでも、田畑さんはめげません。五輪と同時期に神宮プールで日本選手権を開きます。古橋さんはこの大会の1500メートル自由形で世界新記録(国際水泳連盟未加盟だったため未公認)で泳ぎ、ロンドン五輪の優勝記録を40秒以上も上回りました。
青木:古橋さんがロンドン五輪に出ていれば金メダルだったと思います。
──敗戦直後の日本に大きな元気を与えてくれた大会だと言われています。
青木:古橋さんには五輪の金メダルはありませんが、スポーツを超えた社会の英雄に、この時点でなったと私は思うんです。非常に厳しい時代の中で、明るい光をともしてくれた。翌49年の全米選手権に古橋さんとともに出場した橋爪さんが話してくれたのですが、当時は反日感情が強くて、ジャップという言われ方をしていたらしいです。古橋さんが全米選手権でも驚異的な世界記録を出したことで「フジヤマのトビウオ」と現地のメディアが名付け、そのときに初めて、ジャパンになった。「ジャップからジャパンにしたのは古橋だ」と。
──ロンドン五輪にぶつけた日本選手権や全米選手権への派遣をプロデュースしたのが、当時日本水連会長だった田畑さんです。田畑さんは朝日新聞社で49年に常務取締役、52年に退社して64年の五輪招致に尽力します。しかし、東京五輪で日本の競泳は男子800メートルリレーの銅メダル一つに終わります。敗因はどこにあったのでしょう。
青木:64年の東京五輪は、我々水泳関係者にとって苦い思い出です。このときに活躍したのが米国選手です。米国はその10年前から、小学校の低学年から年間を通して泳ぐ、いわゆるエイジグループシステムに取り組んでいました。日本もそれに気付いて、東京五輪以降、スイミングクラブという形で低年齢から年間を通して泳ぐシステムを作る方向に進んでいきます。日本水泳の再建をかけてつくった東京SCで田畑さんが陣頭指揮を執って会長をされて、そこでまた大きな力を発揮するわけです。