──田畑さんの水泳の業績について三つの柱を考えました。戦前の栄光の時期、戦後の復興期、64年東京五輪惨敗からの立て直しの時期です。田畑さんが水泳総監督として参加した32年ロサンゼルス五輪は男子6種目中5種目で金メダルを取ります。戦前の日本の水泳は、どうしてこんなに強かったのでしょう。
青木:日本が最初に五輪の水泳に出場したのは、ロサンゼルス大会の12年前、20年のアントワープ大会です。2人の選手が出て、日本泳法で泳いで歯が立たず、途中から見よう見まねでクロールを泳いだそうですが、予選落ちしてしまった。それから、12年間で世界一になるわけです。田畑さんをはじめ、当時の人のものすごい研究がこの結果を生んだのです。私はそのベースに日本泳法があったと思っています。
──クロールなどの近代泳法が伝わる前に盛んだった日本古来の泳法ですね。
青木:日本泳法は形を競い、近代泳法は速さを競います。日本泳法は400年も続いていて、日本人は水の中で泳ぐ形を習得する訓練ができあがっていたわけです。その形を速く泳ぐ形に切り替えた。従って、12年間という短期間で世界一になれたのではなかろうか、と考えています。
──田畑さんは日本泳法の達人だったそうですね。
青木:当時の人たちは日本泳法を身につけた上で近代泳法に切り替えていました。その先頭に立っていたのが、たぶん田畑さんだったと思います。
──田畑さんが戦前のロサンゼルス五輪の世界一を目指して立てた四つの戦術があります。(1)組織の一本化(2)専用プールを造る(3)信頼できる監督を早く決めて全面的に責任を与える(4)当時世界一の米国チームを日本に呼んで地の利を生かして負かす──。これは日本水連に受け継がれているような気がします。
青木:組織の一本化については田畑さんの功績が非常に大きいと思います。各地にあった協会や連盟、力を持っていた日本学生連盟などをまとめました。後の古橋会長も受け継いで、初心者から頂点まで一貫して選手養成ができるシステムができあがっています。
──専用プールについては、いかがでしょう。
青木:30年に神宮プール(明治神宮水泳場)ができました。今はもうないのですが、このプールを造るときも田畑さんが各方面に働きかけています。戦後の古橋さん、橋爪四郎さんの活躍も、このプールがあったからこそです。