優作さんが私の隣に座っていらして、裕也さんが前の席にいた。優作さんがいきなり、私の顔をじーっと見て、ニッコリ笑って、『陽子さん、行(ぎょう)ですね』とポツリと一言おっしゃった。

 優作さんから見て、私が裕也さんと同じ時間を過ごしているということが、私にとって人生の『行』だと思われたのでしょう。それが優作さんが私にくださった最後の言葉となりました。まもなく、亡くなられました」

 ーー内田さんとは何がきっかけで、別々の道を歩むことになったのですか?
「私がある日、裕也さんと一日中、ディズニーランドで過ごし、近くのカフェで話をしていたら、裕也さんが『都知事選に出るつもりだ』と打ち明けた。まだ、立候補する前のことです。私はそれには反対意見でした。そのことがきっかけで私と裕也さんは別の道を歩みましょうということになりました。

 裕也さんは後日、その別れの日を『舞浜ミーティング』という言葉で表現していました。

 別れてからも、ずっとお友達だし、昨年、都内のカフェで偶然会ったりして、普通にあいさつしていましたし、お友達であることは変わらなかった。

 私は自分の過ごした時間を満喫してきました。裕也さんにはたくさん教えていただき、刺激になりました。私は裕也さんに『ロックンロールって生き方じゃないの?』とよく話していました。メディアだとか、表舞台に出るということではない部分。もっと裕也さんが持っている非凡な文才とプロデューサーしての能力、センスを活かして、世の中にアピールするという方法を取るべきじゃないか。それが十分に発揮できていなかったのではないかと思います。ロックンローラー内田裕也は、本名・内田雄也には遠く及ばなかったと、私は思っています。一人の友人としてご冥福をお祈り致します」

(本誌・上田耕司)

※週刊朝日2019年4月5日号に加筆

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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