もし、あのとき別の選択をしていたなら──。著名人に人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は、俳優の長山藍子さんです。優しいお母さんから稀代の悪女まで役を自分の中に取り入れて、その役を生きるように演じてきました。ものごとに対する深い理解の土台となったのは、終戦後の引き揚げの体験でした。
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ほんとは、引き揚げは命からがらだったはずなんだけど、幼かった私にとってはすべてが興味深かった。その後の私の人生にどんな影響があったか。それはひとことでは言い得ません。
ワンシーン、ワンシーンが忘れることのない原体験になりました。でも、それがあるから、今に感謝ですよね。人生の初めに、そういう経験をしていることで、いろんなことへの理解や感性が深まったというのはあると思います。
――長山は新聞記者だった父親の赴任地のフフホト(中国内モンゴル)で生まれた。終戦の直前、ソ連軍が侵攻してきたため、通信社疎開家族団の一員として、母と弟とともに北朝鮮へ。より安全なところへ女性と子どもだけ疎開させようという配慮からだ。北朝鮮の鎮南浦に着いた翌日、終戦となった。4歳だった。
私たちは市役所の建物に避難して、そこで1年、暮らしました。終戦を境に状況は変わった。そこに歴史の流れがあるわけですが、朝鮮の人たちは私に優しかったんですよ。市役所のお兄さんたちに朝鮮民謡のアリランを教わってね。私、今でも歌えます。
そうこうしているうちに、ソ連軍が南進してきた。女性を求めてくるので、夜になると子どもたちは押し入れにかくまわれて、母たちは必死で部屋のドアを押さえてました。
食べるものもなくて物乞いもしました。日本兵のためのお米がトラックで届くと、わざと袋を少し破いてくれたんです。母たちはこぼれたお米をかき集めて、その日だけは白いご飯がいただけました。おにぎりを押し入れにずらっと並べて、まずは子どもたちから食べなさいって。あのつやつやと輝いていたおにぎりの白さは一生忘れないと思います。