その後、帰国するために深夜の農道を徒歩で、南北朝鮮を分ける38度線を目指しました。遠くに民家のあかりがぽつん、と見えてね。真っ暗で、すごく怖いことは怖いんだけど、幼い私にとって、それは美しい風景でもあった。「ああ、あったかそうだなあ。きれいだなあ」って。
佐世保へ向かう引き揚げ船も覚えています。厳しい環境でした。ここまで頑張ってやっと帰国船に乗れたというのに子どもが死ぬこともあって、ミカン箱に入れて海に葬るんです。水葬ですね。甲板で頬づえをつきながら、流れ去っていくミカン箱をずっと眺めていました。
困ったのはトイレ。船底から縄梯子をつたって登ると、甲板に四角い穴があいていて、そこで用を足すんです。真下は海。海面にはクラゲがいっぱい。手すりもないし、落ちたらそれまで。母が心配して、私の服の背中をしっかり掴んでいた。「藍子ちゃん、うんちが済んだら、立つのよっ!」って。うんちするでしょ、するとね、少し時間がたってから「ぽちゃーん」って音がするの。
佐世保港に到着すると一足先に帰国していた父が出迎えてくれた。私を抱きかかえて、差し出した手のひらに、色とりどりのお星さまがのってたんです。きれいでね! コンペイトーでした。口に入れたら、それはそれは甘くて。あの美しさ、あのおいしさ、忘れられません。
――長山の父は新聞(同盟通信)の記者で、母は雑誌(日本評論)の記者だった。幼いころから、本に囲まれて暮らし、長山自身も本を読むことが楽しみだった。そんな環境で育ったことが芝居の世界へ足を踏み入れるきっかけとなった。
国語は、小学生のころからよくできたの。両親が記者だったし、家に本もたくさんあったし。小学校4年で試験を受けて成蹊学園に入ると、そのときの国語の松田先生という方がとても目をかけてくださった。
中学2年で父が亡くなったこともあり、東京から引っ越して高校は静岡県の三島の県立女学校に通いました。成蹊学園時代の恩師が東京から連絡をくださって「もし大学に行くかどうか迷っているなら、俳優座に俳優養成所がありますよ」と教えてくださった。