──『笑点』でのやりとりはいかがでしたか。
小遊三「全部、引き取ってくれる師匠でしたね。こっちの表現があまりうまくなくても、これが言いたいんだろうと、歌丸師匠が司会の言葉でポーンと返してくれた。ちょっとなかなか他の人にはなかった。他の人というのは(『笑点』司会の)昇太さんか(笑)」
桂米助「私の一番の思い出は昭和42年、18歳の時に、師匠の桂米丸のところに弟子入りしまして、その時の相弟子が歌丸師匠でありました。歌丸師匠はちょうど30歳。柳家金語楼先生が作った落語で、最初に歌丸師匠は稽古をつけてくれました。『どうですか』と聴いたら、『あ、米(ヨネ)さんならその程度だね』と言われたのを覚えています。それから10以上、歌丸師匠には稽古をつけてもらった。これが最高の思い出であります」
──歌丸師匠は最後は呼吸器をつけてましたが、そういう姿を見て、どう感じてましたか。
米助「最後の歌丸師匠の舞台、国立演芸場(4月19日)の時も、私はちょうど出ていた。歌丸師匠がトリで、私は中トリを務めさせていただきました。4月15日が私の誕生日。これが金日成と同じ誕生日でございまして、歌丸師匠はトリをとった後に、車椅子に乗りながらケーキと花束で誕生日のお祝いをしてくれた。自分が苦しいのにそういうことまで祝ってくれたという大変に情の厚い師匠でした」
桂歌春「歌丸には5人の弟子がいまして、それぞれが真打ちになっております。私の思い出は4回の海外公演。カナダ、メキシコ、ペルー、ヨーロッパ、シンガポールなどの海外へ行った時にはとても楽しそうにしていた。日本にいると常に歌丸と言われることから、多少開放されたのではないかと思う。お酒は一滴も飲めない師匠。お酒の席は別に嫌ではないんですが、酔っぱらいをとても嫌がっていました。日本にいたら必ず小言になるんだが、海外だとお酒は陽気でいいねと笑って許してもらえた。高座はいつも(歌丸より)2、3本前に私は出させていただいているんですが、私が『もうちょっとの辛抱です。お待ち下さいね』と言うのが鉄板のネタ。お客さんも私たちの気持ちもわかるのかと笑ってくれたが、もう切なくなる。チューブをつけて高座をやってがんばっていた。歌丸は『私はチューブをつけてまで高座に上がりたくない』と漏らしたこともあった」