──小遊三師匠は最後を看取ることはできたんですか。
小遊三「いや、残念ながら看取ることはできなかった。(2日)午前11時に息を引き取ったということですが、私が横浜についたのは2時ちょっと前だった」
──お顔はどんな顔をなさっていたのか。
小遊三「6月26日に病院へ行った時に、『協会の僕の考えはこうだからね』とすごい迫力だった。協会らしい色を出して、一丸となって、協会らしい高座を作るようにということ。私は早々に退散しました。それ以上いるともっと苦しそうだったから。急にこんなに悪くなるとは。6月30日にも歌丸師匠は一番下のお弟子さんに『オレが死にそうなのにテメェたちは来ねぇ』と言っていた。それが最後の小言でした。7月1日に言葉が出なくなり、2日に亡くなった」
──お弟子さんたちはみんなでお見舞いに行こうという話が出ていたんですか。
歌春「順番にというかそれぞれ行っておりました。私は6月27日が最後でした。呼吸器が苦しいと言っていたんですが、最後は息をしなくなったという感じで、やすらかな顔をして亡くなったとおかみさんから聴きました」
──米助さんが最後に会ったのは?
米助「最後に会ったのは4月29日。『具合が悪く、危篤のようになった』と、知り合いと飲んでいたら電話が入った。『師匠、米助ですよ』と、大声で言ったら、それを聞いて蘇ったらしいです」