都内で記者会見した、(左から)春風亭昇太、三遊亭小遊三、桂米助、桂歌春(撮影/上田耕司)
都内で記者会見した、(左から)春風亭昇太、三遊亭小遊三、桂米助、桂歌春(撮影/上田耕司)
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一番弟子の桂歌春(撮影/上田耕司)
一番弟子の桂歌春(撮影/上田耕司)

 落語家の桂歌丸さんが慢性閉塞(へいそく)性肺疾患のため逝去して一夜明けた3日、日本テレビ系演芸番組『笑点』で司会をしている春風亭昇太(58)、歌丸さんが会長を務めていた落語芸術協会の会長代行を引き継いだ三遊亭小遊三(71)、歌丸さんの弟弟子の桂米助(70)、一番弟子の桂歌春(68)が都内で記者会見した。

【桂歌丸さんの一番弟子の桂歌春】

「歌丸師匠は酒が飲めないのに、塩辛、いか、いくら、からすみと酒のつまみが好物だった」「『笑点』では5つ年上の奥さまに頭が上がらないふうに言っていたが、実際は亭主関白」「だじゃれを言うなと言っていた」「最後まで呼吸器を付けていた。鼻の頭がすりむけていて痛がっていた」など、「笑点」の舞台裏や人柄をしのぶエピソードをそれぞれが笑いを交えながら明かした。

 歌丸さんの通夜・葬儀は家族から「最後は歌丸ということではなく、椎名巌(本名)として惜しみたい」という希望から9、10日に近親者のみで行われる。

 お別れ会は翌11日、横浜市の妙蓮寺で午後2時から開かれる予定だ。

 以下は記者会見の主な一問一答。

─―歌丸さんの一番の思い出は何ですか。

昇太「入門したときからお世話になっている。子供の頃から見ていたスターだったので、とてもじゃないけど、近寄りがたいところがあった。『笑点』にレギュラーに出していただく時、僕があまり受けてなくても、師匠が僕の出番を増やしてくれた。本当にありがたいと思いました」

──歌丸師匠から『笑点』の司会を受け継ぐ時、どのように言われましたか。

昇太「その時も、気を使わないように気配りしてくれた。師匠から『昇太さんのやりたいようにやってくださいね』って言われました」

小遊三「きのう、遺体が安置された部屋から帰ってきました。晩年の姿が後輩としては記憶に残っている。(師匠は)完璧にやるんですね。これがマネできない。個人的にお付き合いができたのは『笑点』に入ってから。とてつもなく、可愛いらしい歌丸師匠に接しました。マージャンをやるにも、ビシッと姿勢が正しい。賭け事をやるのに姿勢を正しく、クリスチャン・ディオールか何かのハンカチを前にかけて、『ロン』とか言っていた姿を思い出します。私が噺家になろうかなと思った昭和40年代の初頭には『笑点』が大ヒットしましたので、その時にはもうスターでした。寄席に歌丸師匠が入ってくると怖かったですね。当時はピリピリしてましたから。やっぱり、厳しいところはしっかり厳しかったです。無駄に怒るということではなくて、こっちがドジを踏むと、本当にしっかり怒ってくれる。高座も『笑点』ネタで大爆笑。歌丸師匠のおっしゃった言葉に、『落語家というのは何でもできなければいけない。人情噺は不得手だよと言っていてはいけない。何でもできて初めて噺家』と言っていた。『長屋噺』もやれば『怪談噺』もやっていた。思い出しただけでも、すごいなと思います。それを置いてかれてもマネできませんけどね。ああもう口きかないのかなと思うと、本当に寂しい」

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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『笑点』では全部引き取ってくれる師匠だった…