この結果、町民の野球部に対する期待は高まっていった。勢いづいた2期生で元中学校教員の木村嘉忠は、同期4人と「小鹿野高校野球部を応援する会」を立ち上げた。手始めに残存する名簿を頼りに63歳以上のOB5千人に手書きで趣意書と、1口5千円からの寄付金の振込用紙を添えて送った。発送から1カ月も経たずに全国に散る500人余りのOBが会員となり、中には10万円を振り込む人もいた。当時、80歳を目前にした木村らではあったが、野球部の近況を伝える会報も毎月作って発送し、また浄財をボールに変え、野球部の遠征費用として寄付もした。

 たとえば一昨年は北陸遠征、そして昨年3月には関西遠征をサポートし、山あいの“井の中のかわず”に留まらせず、武者修行で力をつけさせていったのだ。

 またこれまで練習試合のために小鹿野高校まで出かけてくるのはせいぜいが秩父4校の“スープが冷めない距離”の学校ばかりだったが、県下で名の知れた聖望学園を始め、横浜からもお手合わせとばかりに来るようになった。選手も石山の評判を聞きつけて小鹿野の門をたたく者が少なくない。入学志願者も微増ながら、それ以上に礼儀正しい高校生として町民から評価されるという、学校としては想定外のうれしい悲鳴となった。「野球を通じた」小鹿野高再生プロジェクトは当初の思惑通り、確実に前進していた。

 小鹿野高校野球部グラウンドのバックネット裏では野球好きの町民が目を細めて練習を見守っている。和歌山県の日高高校中津分校の視察で目の当たりにした町と高校が一体となったあの風景がここでも再現されようとしていた。スタンドと呼ぶほど立派ではないが、土建業を営む部員の保護者が建築廃材や鉄骨で観覧席を築き、100人ほどが観戦できる。かつては“立派な”叢(くさむら)だった三塁側ブルペンにも屋根がしつらえられ、雨天時でも投手は練習が可能だ。また、他校での練習試合では、選手の送迎に長距離トラックの運転手の保護者がひと役買う。母親ら女性陣も地元で試合が行われる時や週末の練習の際に関係者らへのお茶やお弁当の手配、救護、そしてわが子への黄色い声援も忘れなかった。

 気がつけば、町の多くの人たちが何らかの形で小鹿野高野球部に関わるようになっていた。

「いいチームを作るのには5年はかかるよ」

 石山が当初、校長に約束した5年目を迎えていた。

 夏の甲子園をかけた大会は早々に敗退したが、主力選手のほとんどが秋に向けた新チームに残った。

 ショートを守るキャプテンの川合一弘は隣町の出身だが、中学時代の成績はトップクラスで、まわりの誰もが県下有数の進学校へでも行くものと思っていた。進路希望先を「小鹿野高校」と告げられた担任教諭は聞き間違いかと驚いたという。

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