男と女が出会う場は神社の境内が多かった。なかでも神田明神は人気の場所だったとか。近くの上野・不忍池には、出会い茶屋という今のラブホテルのような茶屋もあった
男と女が出会う場は神社の境内が多かった。なかでも神田明神は人気の場所だったとか。近くの上野・不忍池には、出会い茶屋という今のラブホテルのような茶屋もあった

 平成に入って「不倫は文化」と言った人もいたが、日本で不貞行為に対する世間の目が厳しくなったのは、明治時代以降だともいわれている。そこで、江戸時代の絵や文献を通して、今と昔の相違を探ってみる。

「江戸時代、不倫や浮気は不義密通といわれ、江戸幕府が定めた『御定書百箇条』には『密通いたし候妻、死罪』とあり、密通の男も死刑という厳しい決まりがありました」とは江戸文化に詳しい多摩大学客員教授の河合敦さん。さらには浮気された夫は、妻とその相手を殺しても罪に問われなかった。

 厳しい掟があるこの世で一緒になれないなら、あの世で結ばれようと、あちこちで心中事件が続発し、幕府も困惑していた。

 表向きはそうでも、実際に罰せられることは少なかったようだ。

「世間体もあり、じつは示談になるのが一般的でした。表沙汰にしない和解金として『首代』7両2分(現在の約50万円)と詫び状で決着したようです」(河合さん)

 武士にせよ、庶民にせよ、不倫が周囲にばれると体裁が悪いし、罪にも問われるので表面化することは少なかった。それが理由か不明だが、おおらかに恋愛を楽しんでいたようだ。

 とはいえ、もちろん正しいことではない。江戸時代は不倫を続けて死罪になるか、死してあの世で一緒になるか、いずれにせよ命がけだったのだ。(文/本誌・鮎川哲也)

週刊朝日 2018年2月16日号