70年代終わりごろ、ブティック竹の子を訪れる若者客が増えてきた。
「まだ俺も20代だったからさ、店に出入りする連中の兄貴的存在だったんだね。しょっちゅう店に来て話をしてたね」
ブティック竹の子のオーナー、大竹竹則さんは言う。
地方から東京に遊びに来たすし職人見習いの少年がいた。帰りの電車賃がなくなってしまったという。
「店の前にジーッと5時間ぐらい立ってんだよ。洋服を返せないかなってわけだよね」
大竹“兄貴”は、出世払いで電車賃を貸した。数年後都内で独立し、ちゃんと「出世」してくれたようだ。
ブティック竹の子の、とにかく派手で独特なシルエットの服は、ディスコでよく目立つ。竹の子に出入りし、竹の子の服を着て踊る若者たち。竹の子族の誕生である。
「最初は『竹の子軍団』って名乗ってたんだよね。『竹の子族』っていうのはマスコミがつけたみたい」
人気が増すにつれ、「竹の子軍団」も、中高生が増えてきた。大竹さんは言う。
「彼らはディスコには行けないでしょ。世の中に出るちょっと手前の年代のコたちの、自己表現の場だったんだよね。大人の世界だったらお酒を飲むとか、発散できることがたくさんあるけど、若いコたちにはそういう場がなかったからね」
ディスコからホコ天へ。“大竹兄貴”は、彼らに言っていた。
「悪いことはしないように。マナーを守って礼儀正しく。目立つんだから、ちゃんとしたほうがいいよと」
卑弥呼、不恋達(フレンズ)など数十のグループが生まれ、5千人がホコ天で踊った。その中からスターも生まれた。“乱奈阿珠(ランナーズ)のヒロくん”、沖田浩之である。
「竹の子族ができる前から、まだ高校生だった沖田くんがよく来てたんですよ。ジーッと服を見て、買わずに帰っていく姿を覚えてますよ。頭のいい子だったよね」
「ビー・バップ・ハイスクール」などで活躍した、清水宏次朗も竹の子族出身である。デビューにあたっては、大竹さんも力を貸した。最初は歌手としてデビューした。芸名は、竹宏治。「竹」の意匠が、ちゃんと生きていた。
(太田サトル)
※週刊朝日 2016年1月15日号