前横浜高校野球部監督
渡辺元智

わたなべ・もとのり/1944年、神奈川県生まれ。横浜高校を卒業後、65年に同校のコーチとなり、68年から監督。春3回、夏2回の全国制覇を誇り、通算51勝。教え子に松坂大輔、筒香嘉智らがいる(撮影/品田裕美)
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 横浜高校野球部を率いて約50年。甲子園で5度の全国制覇、1998年には春夏連覇を果たした渡辺元智氏。激戦区の神奈川で母校を強豪に育てた渡辺氏は、生徒とどのように接してきたのか。ノンフィクションライター・柳川悠二が本人に聞いた。

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――全国屈指の名門を率いてきた渡辺氏は、後年は球児を優しく見守る表情の印象が強い。しかし、指導者としてスタートしたばかりの頃は、彼もグラウンドでは“鬼”だった。

 私の監督人生には幾度かの転機がありました。

 監督に就任したばかりの頃は、まさしくスパルタの指導。同じ神奈川のライバル・東海大相模を率いていた原貢さん(2014年死去、巨人・原辰徳監督の父)に追いつけ追い越せでやっていた時期で、とにかく日本一長くて、厳しい練習を課しました。単純に、練習すれば結果が伴うだろうという考えで、野球理論も理念もなかった。当時のグラウンドには照明設備がなく、車のライトを照らし、22時、23時まで薄暗い中でノックを打ち続けました。

 成長を促すための鉄拳制裁はどこの学校でも当たり前の時代でした。そのやり方で全国制覇したものだから、私も有頂天になってしまった。練習は変わらず厳しかったですが、いろいろと誘惑が多く、練習後は遅くまで飲み歩きました。

 選手はダラしない監督の背中を見ていたのでしょう。次第に試合でも勝てなくなりました。そんな折、仏教界の高名な方と知り合いになり、「一流になるには一流の人物と会いなさい。だからといって一流にかぶれてはいけません」と教わった。要は他人の意見に対する聞く耳を持つことの重要性に気付かされたのでした。

 以来、選手の立場に立って、会話を大事にするようになりました。そんな時に入学してきたのが、愛甲猛(元ロッテほか)です。彼は確かに問題を抱えていましたが、私の狭い自宅に住まわせ、日々、言葉を交わし、次第に心を開いてくれるようになり、そして80年夏には深紅の優勝旗を手にすることができたのです。

――98年には、松坂大輔を擁し、春夏連覇に加え、神宮大会、国体も制した(公式戦44勝無敗)。その3年前にも渡辺氏には大きな転換期があった。「松坂以上の逸材だった」と今も語り継がれる丹波慎也選手が、練習試合を終えて帰宅したあと、就寝したまま心臓肥大による急性心不全で亡くなったのである。

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