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「おや?」と思って立ち止まる。そしてはじまる旅の迷路――。バックパッカーの神様とも呼ばれる、旅行作家・下川裕治氏が、世界を歩き、食べ、見て、乗って悩む謎解き連載「旅をせんとや生まれけむ」。第18回は「バングラデシュの椅子」について。
【写真】世界を旅する下川裕治氏が大好きな椅子“ラカインチェアー”
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バングラデシュのコックスバザールに大好きな椅子がある。安楽椅子というのだろうか。背はかなり倒れている。太い木で枠をつくり、背や腰を乗せる部分には、細いビニールを編んだものが張ってある。
僕はこの椅子を勝手にラカインチェアーと呼んでいる。特別に価値がある椅子ではない。昔はどのラカイン人の家にもあったと思う。
この椅子を目にしたのは、30年ほど前だ。老人がいつもこの椅子に座り、外を眺めていた。椅子というより、座る老人が好きだったのかもしれない。
ラカイン族は、バングラデシュ南部に暮らす少数民族だ。仏教徒である。ミャンマーとバングラデシュに分かれて暮らしている。
30年前、親しくしていたフリーのジャーナリストがバングラデシュで死んだ。当時、ミャンマーでは学生を中心にした民主化運動が起き、軍に追われ、バングラデシュ側に逃げた学生を取材するために、彼は国境地帯に入った。そこでマラリアにやられた。彼が拠点にしていたのが、コックスバザールだった。あるラカイン人の家に世話になっていた。
彼の死後、コックスバザールで小学校を運営することになった。なぜ小学校なのか、僕にはよくわからなかったが、遺族や知人たちは形のあるものを残したかったのだ。僕は現地での交渉という役まわりになった。
コックスバザールを訪ねた僕は、後継ぎのように、彼が世話になった家に泊まるようになった。そこでこの椅子と出合った。
ラカイン族はかつて、この一帯に王国を築いていた。植民地化を狙うイギリスに激しく抵抗した。イギリスはラカイン族の弱体化を狙い、彼らが暮らすエリアのほぼ中央に国境を引く。それがいまのバングラデシュとミャンマーの境界だ。