■英語の論文が読めるからと言って英語を話せるようにはならない
民間企業に託すくらいなら、大学側が2次試験で各々出題すればいいだけの話です。それに、本当に専門的な英語は、大学に入学して学部ごとに分かれてから、授業の中で覚えていくものです。
私は薬学部でしたが、研究室という少人数の中で、週に1度、「英語で化学の論文を読む」「説明や質問を英語でする」という発表の場が設けられていました。そのおかげで普段から英語で話せるようになった……かというと、そんなことはありません。
論文は読みやすくなりましたが、そこで使う言葉と、普段使う言葉はかなり異なります。私は、外国人の友人ができたことで、意思を伝えるには英語で話さざるをえないという状況におかれて、初めて話せるようになったと感じました。
薬学部から外資系の会社に入った友人たちは、社内で英語を用いた会議をしたりメールをしたりせねばならず、やはり必要にせまられて話せるようになりました。ただし外資にいるからといって、「メールを書くときだけ英語をつかうという人は、話せるわけではない」と言っていました。
つまり、英語に関わっているからといって、必要以上に自分の専門範囲の英語をすらすらと話せるわけではないのです。政治家も、英語をつかう相手と話すときは、必ず通訳を通すという話があります。
なぜなら、ほんの少し意図したものと違うニュアンスで相手に伝わってしまうと、外交に大きな溝を生みかねないからです。しかし、それでも各々の専門分野で、海外とのビジネスは成り立っているわけです。
つまり、英語は、必要な人が、必要なときに必要なものを話したり書いたりすればいいのではないでしょうか? 共通テストで英語の「話す」「書く」を採り入れたからといって、それがグローバル化につながるか考えると、甚だ疑問です。
■英語が話せなくても、生活に支障をきたすことはない
日常で英語が話せなくても、洋画には字幕がついていますし、海外旅行に行くとしても英語が大変だと思えば日本人のガイドさんがいるツアーを選べばよいわけで、生活に支障をきたすことはありません。そして私が、外国人の友人を通じて英語を話せるようになったからといって、グローバル化が進むこともありません。
ある分野を国際的に発展させるためには、その分野にいる人がそこで使われる英語の専門用語を活用できれば済む、といえます。
つまり、政府が持ち出した「日本人は英語が下手で話せないので」「グローバル化が遅れてしまう」という因果関係から、根本的に考え直す必要があるように思えます。
共通テストの議論により、最も被害を受けるのは、振り回されている受験生です。試験で「ここが出る」といわれたから対策をとっていたのに、「やはり出ない」と言われたら、対策を頑張ってきた人は、その分の時間が(受験的に)無意味になるわけです。
賛否両論あるグローバル化の一つの手段を実験的に試すより、学生にとって「人生がかかっている」といえるほど重要な受験を、大人の都合で邪魔しないことのほうが大切なのではないでしょうか。