新春の箱根駅伝が待ち遠しくなってくる時期であるが、現在、日本の大学長距離界には多くのアフリカ人ランナーが在籍している。その多くがケニア人であるが、彼らが今や日本の正月の風物詩として、欠かせない存在になっていることは確かだろう。
最初の衝撃は今から30年前、1989年(第65回)の山梨学院大学のジョセフ・オツオリだった。1年生ながら「花の2区」にエントリーされると、並み居る他大学のエースを次々と抜き去り(最終的に7人抜き)、異次元の走りを見せて駅伝ファンを驚かせた。さらに翌年以降も“爆走”を続け、同区間で3年連続の区間賞を獲得し、4年時には故障の中で激走してチーム初の総合優勝に貢献した。
残念ながら卒業後に進んだ実業団では度重なる故障に苦しみ、結果を出せないまま30歳でケニアに帰国。そして2006年8月に自動車事故に遭って37歳で急逝。このニュースに多くの日本人が心を痛めたが、オツオリによる「プルシアンブルーの衝撃」は、強烈なインパクトを残し、今でも多くの者の脳裏に強く刻み込まれている。
彼をパイオニアとして、山梨学院大ではその後もケニア人留学生が活躍した。その流れは他大学にも及び、平成国際大が2人のケニア人留学生の助けを借りて2001年の第77回大会の箱根駅伝に初出場すると、その後も駅伝新興大学が留学生たちを招き入れ、まさに「助っ人」として力を発揮した。
この流れに対し、当初は特別なルールは設けられていなかったが、2006年に「留学生のエントリーは2人以内、走ることができるのは1名のみ」というルールが設定されることになった。それでも賛否両論がある「留学生ランナー」であるが、彼らの走りが劇的な順位変動をもたらし、それ自体がレース展開上の大きな魅力になり、観る側の“面白さ”につながっていることは紛れもない事実。
実際に、早大の大エース・渡辺康幸とデッドヒートを繰り広げたステファン・マヤカ(山梨学院大)、2年連続で区間新を記録し、卒業後に札幌ハーフマラソンを3度制したメクボ・モグス(山梨学院大)、2009年の第85回大会で20人抜きを見せたギタウ・ダニエル(日大)などの名留学生ランナーが活躍し、箱根路を大いに盛り上げた。